図 書
現代剣道百家箴
剣道に生きる
空閑 源次(剣道教士八段/全剣連理事)
剣をとって45年今日これを顧りみる時私は剣道を学んだお蔭で、命拾いをしたことが再三ならずあった。
そのうちの1番記憶に残っている事を書いて見たいと思う、それは昭和20年8月9日午前11時45分、私が高射砲隊分隊長として長崎駅裏の現在の魚市場の所に駐屯していた時の事である。被服班長であった私と兵器班長、食糧班長の3人は事務室で事務を取って居り他の兵員は隊長以下上半身裸体で訓練についていた。丁度空襲警報が解除になった時でヒラヒラと落ちてくる落下傘に対して対射訓練をしていたのである。
一瞬、ピカッと光線が光ったと思った瞬間、兵器と食糧の班長は窓から飛び出した。私はほんの一瞬おくれて書類を握って机の下へもぐっ た、同時に爆風が数回にわたって起り兵舎はつぶれてしまった。
数秒にわたって真白いガスがもうもうと立ちこめて来た。私は机の下へもぐった為怪我はなかったが、ガスの為居たたまれず、はい出て隊長と叫んで隊長をさがしたが見当らない。兵隊達はと見ると強烈な放射線を受けた皮膚が水密桃の皮をむいた時の様に白く点々と血がにじみ出て居て一目では誰なのか解らない位だった。隊長は指揮台の高い所に居た為15メートルほど吹きとばされて気を失っていた。私は隊長をゆり起した。目をさました様だったが、意識はまだもうろうとしている様であった。その時倒れた兵舎のあちこちから爆風により飛び散った油の様な燐の様な物が、太陽の光線によって火となってあちこちから燃え始めた。私は負傷した兵隊達を激励して火を消す様に命じた。兵隊達は負傷しながらも皆良く動き火を消した。その時私は防空壕の中の通信兵を思い出し、壕の中へ入って見たところ、初年兵が2人通信機の机の下にもぐってガタガタふるえていた。私は2、3ぱつ気合を入れて精神を元にもどし、隊長を担架で陸軍病院の壕へはこんだ。途中線路の枕木や電柱が燃えていた。人間犬馬がいたる所に倒れて居て、家は崩壊し、まさに地獄とはこんなものだろうと思った。こうした中で私と初年兵の3人は助かったのである。一緒に同室で事務を取って居た2人はあわてて飛び出した為に即死してしまった。人間の命は判らないもので、紙一枚の境と言うか、机の下へもぐった私は57才の今日元気で毎日剣道を楽しみながら生きている。一瞬の動きにより今日の私がある事を思う時、私が剣道をやって居なかったらかの二人と同様窓から飛び出していただろう、剣道が私を助けてくれたのである。当時私は錬士五段31才であった。終戦後いろんな事をやった。金もうけもした。失敗もし、丸はだかにもなった。だまされた事もあった。然し、私の人生には剣道があった。稽古の出来ない時代も常に剣道が私の心の中には生きていたのである。うそをつかない事と後悔しない事が私の信条であるから、悔もしなければ悲しみもない、すべてを剣にかけ、剣に生きる楽しさこれが私の今日であり、今後青少年剣士達に一源三流の精神を育て上げる事が夢であり私の生涯の仕事と思っている。
日本に生れた青少年が日本人である事を忘がちな今日、吾々剣道家は剣道の普及指導が、これからの日本に、如何に大切であるかを考えるべきではないだろうか、全剣連の責任の重大さを考へてほしいと思う者である。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。