図 書
現代剣道百家箴
剣道の勝負
佐藤 卯吉(剣道範士九段)
剣道は勝負を争うことを前提としている。真剣なる態度で勝負を競うところに意味もあるし、修養的価値をも見出すことが出来る。それは動物的闘いではなく、人格的立場に於いての闘いである。さらに言えば君子の剣でなくてはならない。
剣道は不正不合理を許さない。理に従い道を踏んで闘うことに専念し、総べてを捧げて悔いない真剣さと、身心の力を最高度に統一し得ることは、勝負を他にしては容易に体験し得ない価値である。
試合をするからには勝利を得ることが望ましい。しかし対手(相手)があること故、勝敗は予断を許さない。自分が勝てば負ける対手のあることを思わなければならない。自分の勝利を喜ぶと共に負けた対手が満足して呉れるような試合振りが望ましい。
勝っても負けても、勝ちっ振りが美事であると共に負けっ振りが美事であって欲しい。なお試合を観る多数の観衆をも感激させるような試合振りであって欲しい。観衆は好ましからぬ態度の勝者よりも、むしろ負けっ振りの美事な潔い敗者に心からなる拍手を送ることを忘れない。
試合にのぞんでは、自分は勿論対手も共に救われ又観衆まで救われるような奥床しい態度の試合振りが望ましい。
試合にて自分の勝ったことしかわからないものより、むしろ自分の敗れたことがわかる者の方が人間的には立派である。
「常に自分の非を認める勇気を持て、自分の誤りを認める勇気を持て。」と小泉信三氏は言っている。誰しも自分の敗れないこと誤りのないことを願うが、若し敗れたならば誤りを犯したならば、きれいにそれを認めると共に取るべき責任を取る。しかしそれは仲々勇気を要することであるから、人は兎角弁解をする。残念なことであるが我が剣道界に於いても弁解が余りに度々見られる。しかし何と言っても弁解することは見苦しい。
英国人が良きスポーツマンとして第一に考えるのは「極力闘う人であれ、そして潔く敗れる人であれ。」ということである。又孔子は「過って改むるに憚ることなかれ。」と言っている。我々剣道家にとって大いに参考となる言葉である。
勝敗は兵家の常である。自分が常に勝つものとは限らない、敗れることもある。唯々十分なる準備をして体勢を整えて試合にのぞむだけである。剣道の試合ばかりでなく、人生の闘いに於いても此処が勝負どころというべき場合がある。その時それを懼れて避けていたのでは世の中の劣敗者となるより他はない。
剣道の勝負どころに直面したならば少しも躊躇することなく、進んで勝敗を決する態度に出なければならない。成功不成功は次の問題である。若しその時逡巡するようなことがあれば勝機を逸することになるのであろう。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。