図 書
現代剣道百家箴
体験
佐藤 毅(剣道範士八段)
日暮れて途遠し
「顧みて一番苦しかったのは、いつ頃ですか」と、このごろ問われることがある。生を享けて60年、なるほど質問されるのも当り前だと、ひとり合点をするのであるが、さてどう答えたらよいものであろうか。
剣道修行の過程で、「苦しい」とはいったい何を指すのであろうか。これがまず問題である。年若かりし日、随分苦しい稽古をしたようにも思うが、それとて今にしてふりかえれば、ただ身体的な苦痛せつなさであったようで、むしろ若かったのだから当り前のことであったはずであり、まあ人並みにやってきたものだと、楽しい思い出でさえある。
今孔子の言う耳順(60歳)の年を得てしみじみ考えることは、剣道をどう考え、どう表現したらよいのであろうかということである。試みに、剣道は心の平安を得るの道であると仮定するならば、みずからをかえりみてあまりにも未熟であり、耳順に示される平安の境地など、夢想だにもできない。「日暮れて途(道)遠し」とはこのことをいうのであろうか。しかし、また自戒して為さねばならぬと思う次第である。
剣の徳
長い教員生活の終り頃、中学校長として一寒村に単身赴任したことがあった。初めての新制中学校生活で、どのような新しい息吹きを創造できるか、そのために地域社会との関連をどう調整していくか、赴任に当っての当然の不安でもあり、緊張でもあった。
ところが任地に行ってみて、まことに思いがけない事態に驚いた。というのは、会って話をする人ごとに、どうして知り得たかは勿論明らかではないが、まずあいさつのひと言ふた言めには、きまって「あなたは剣道の高段者なんですってね」と言って話がくだけ、初対面の固苦しさがすぐ消えたことであった。
これはたいへんありがたいことであった。明日からの学校運営への協力者たるべき人々は、すでに親しい友人であり、同僚となったのであった。皮相的な見方と評されるであろうが、事実はまさに剣道修錬の功の一具現である。剣の徳と称して可なりではあるまいか。
思えば数多くの先生先輩同好のかたがたのお蔭で、今日あるを得たのであるが、ただに剣道の勉強ができたというだけでなく、長い年月、これらの多くのかたがたとの交心のよろこびは、これはまさに絶大である。そこに代えがたい人生のよろこびが軌道の如くに伸び広がり、終生の天の恩恵を得た思いである。
禅語に「瓦のかけらを握って正法を得ているものがいる、しかし、万巻の書を持っても迷いの世界を出られぬものがある。」とあるが、剣道という瓦ならぬ伝統の宝剣を握って、この上ないしあわせにあることを、深く深く感謝する次第である。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。