図 書
現代剣道百家箴
剣道修行の心構え
重岡 昇(剣道範士八段)
私が武専(大日本武徳会武道専門学校)を卒業して、昭和12年に大阪府警に奉職した当時の主任師範は、故志賀矩範士でした。昭和24年鹿児島で病没されるまで、私の壮年時代は専ら先生に師事し、先生の言行は、私の剣道や処世の上で終生の心の支えになっています。先生の思い出の一端を、私なりに、まとめてみたいと思います。
先生は、人格高潔、頭脳明晰、雄弁で古武士の風格を備えた、さむらいでありました。当時、私は、30才代で警察学校、武徳会など日に3回以上の稽古を続けた時代でした。その上、夜には頻繁に先生の宅を伺い剣道の話をききました。稽古に熱中する程訪問の度合はふえ、稽古にゆるみが出ると疎遠になりがちで、そんな時は先生の方から催促されたものでした。現今では、練習時間は大同小異ですが、先生の宅を訪問して個別に話をきく機会が少ないと思います。努めて剣道の話をきく機会を作り、或いは、読書により見聞をひろめたいものです。相撲の三原則も、見る、聞く、取るだといいます。先生は、人を見る眼にすぐれ、稽古に於いても見取り稽古で相手の癖や、起りを見ぬき「あそこは打って見せる」と断言して一本だけは、必ず打って見せられました。
「初太刀の一本は許すな」
どんな大先生でも、どんな下位の者でも立上りは五分の気分で全力をつくして初太刀の一本に生命をかけることであります。
「出はなを打つこと」
常に相手の起りを打つ気持で稽古することです。先にかかり備え十分にして可能であります。不動心に徹し、常の心で四戒(「驚・懼・疑・惑」のこと)に捉われないことが条件です。
「すきを打つのが剣道だ、力が等しければ先に打った方が負ける。」
心技の備わった構えにはすきはありません。心技のくづれがすきです。そこに理が生まれ技理一致の技が出るのです。無理は破綻の因(「もと」か?)で心に焦りを生じ、無理な技を出せば、すきが生じます。力が五分の場合は、先に技を出した方が、起りを打たれて負ける理です。
「さあ来い、来なければいくぞ」
立合いの待中懸、懸中待の気持を表わして妙を得ています。「一―九の十、二―八の十、五―五の十、ここを以って和すべし」「来る者は即ち迎え、去る者は即ち送る」「来る者は拒まず、去る者は追はず」とは心情に於いて大差があります。人の和も剣の和も円をもっとも良しとされました。
「長所は短所、二つ良いことはない」
人には夫々長短があり、個性を陶冶することが人間完成への生涯の道であります。面に強い者は、面に弱く、小手の得意な者は小手に弱い道理です。天は二物を与えずと申します。名欲は両立しません。虫の良い一人よがりを戒めています。苦は楽の種、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるのです。
「なりきれ」「稽古は試合の如く試合は稽古の如く」
相手次第で初段になり参段になり五段になり七段になり切って稽古してこそ指導の効果は上るのです。指導者の第一義的な信条であります。地稽古と試合が殆ど同じようにやれるように心掛けることであります。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。