図 書
現代剣道百家箴
世直しの剣
園田 直(全剣連顧問)
武道とは精神統一、人間修業の場である。少年時代からほぼ40年、得た結論がこれである。もともとは、体をきたえたいとか強くなりたいと思って始めるのが武道に入る動機だろうが、私の場合はそうやって、はげんでいるうちに遂にはそれを超越して、きわめて精神的な「道」になった。
若いころは私もそうだったが、どうしても武道が「手段」になりがちである。「私は剣道何段だ」とか「オレに怪我人を出させるな」とか、えてしてカッコいいことに武道をもちだそうとする。いま、私のところに出入りしている若い人にもそういう人がいる。しかし実はそうした自己顕示は武道とはまったく無縁のものである。というよりむしろ武道をたしなみながら実は武道を否定するものといえよう。
むかし人を斬るために始まったのは武「術」であった。それが「道」になったのは、常に「絶対」と対決することによって、それが実は自己との対決であるところから到達したものであろう、と私は考えている。
「剣は手に従い、手は心に従う。心は法に従い、法は神に従う。一心不乱習練をつめば、手は心を忘れ、心は法を忘れ、法は神を忘れる。 この時が極意、無念無想万化の時」とは、私の亡き恩師羽賀準一先生からいただいた言葉である。神道無念流の極意である。
この言葉の示すものは、要するに自己との対決に於いての自己抑制である。しかもこの言葉が生きているのは、自己抑制を最も要求されているのが、ほかならぬ現代だからである。それは政界においてとくに顕著であるが、自己顕示こそが現代を生き抜く術みたいになっている。「モーレツ社員」などその典型であろう。「モーレツ社員」にもいいところはあるが、それが「オレがオレが」の出しゃばり精神になっているところに現代の精神的な欠陥がある、と私は考えている。それだからこそ、ついには「自分さえ良ければ他人はどうなってもよい」という脱人間愛の社会を形づくることにもなっているのである。自己顕示を武道の世界に持ちこんでみせる若い人の現出も、そこらに原因があろう。
そうしたことに思いをいたす時、たてなおすべきは武道そのものではなく、現代の世相そのもの、社会そのものである。しかもそうした思いを、日々新たにしていかなければならぬとすれば精神統一、人間修業としての武道こそは、現代人に必須のものともいえる。
「手は心を忘れ、心は法を忘れ、法は神を忘れる」世界を求めて「一心不乱に習練をつむ」以外に道はない。そのときにはじめて、剣は真の世直しの剣となろう。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。