図 書
現代剣道百家箴
心の隙間
時政 鐵之助(剣道範士八段)
人間には誰しも日常生活の中で自覚しないまま油断があったり、責任を果して居らないことが度々あるものであります。それを後になって失敗と言う事実に直面して始めて気がつくことがあります。然してその時はもう手遅れである。後悔先に立たずとはよく言ったものです。私も御多分にもれずこういった失敗を数知れず体験して居りますが、失敗は成功の源と言う言葉もありますように、大切なことは失敗をした時の反省であると思います。剣道の試合も勝った時そこには余り反省はなく、負けた時にこそ其処に悔いを感じ、それは同時に反省のチャンスを與えてくれるものであります。私にも失敗をしたことが後に幸いに役立ったことの体験の一例を述べさして戴き、又之は私が剣を学ぶ戒めともして居ります。
昭和11年7月、私のまだ若い頃防府中学校に職を奉じて居た時のことです。宿直に当ったその翌朝、いつものように校内外を巡視して別に変ったこともないので、宿直日誌に「校内外異状なし」と認めて校長に提出し、1時限目の授業をして居ますと校長より招集がかかりました。授業中に校長よりの招集でありますので何事であろうと不思議に思いながら行って見ますと、昨夜作業の教官室に泥坊が入り、作業品の売上金が全部盗まれて居ることを知らされ、且は驚き、且は恐縮した次第であります。私が朝巡視した時には教官室の錠前は確かにかけられて居たよう思われましたが、室内に這入ってみますと、其処は散々に荒らされて居る。思うに泥坊は南京錠でありますので侵入する時こじ開けたものを出る時にいかにもかけてあるように見せかけたものと思われます。それにしても私が錠前に手をかけて確めて居たら泥坊の入ったことをその時に発見したでありましょう。
ところがこの出来事のあった翌月の8月(夏休中)又宿直の当りました夜、午後8時の巡視の時入念に校内外を調べながら校舎の一番はずれの教室にさしかかりドアーを開けて見ますと中に一台の自転車が置かれてあるのを発見しました。懐中電燈で照して見ると「呉」のマークのある自転車で荷台に大きなトランクが着けられてあるではありませんか。不審に思ってその自転車を宿直室に持ち帰り小使(用務員)立会いの許にそのトランクを開いて見ますと、中には新しい時計や指輪、カメラ等が一杯つめられて居ります。愈々只事ではないことを察知して直ちにこの事を警察に通報しました処、充分注意して居てくれ、直きに行くからとのことでありましたので、私は自転車が隠されて居た教室の隅に隠れて自転車の持主の現れるのを待ち状せながら蚊にさされながら夜中の12時過ぎ迄待機して遂に格闘の末逮捕し警察に差出しました。惟うに先の失敗がなかったなら此の結果もなかったかも知れません。平穏な時、順風の時こそ心に隙が生ずることを戒めて居ります。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。