図 書
現代剣道百家箴
私と剣道
野村 高次(剣道範士八段)
私は、剣道に宿縁をもつことができたことをこよなく喜び運命の神に感謝している。
私の剣道への出発は満9歳、奥山(飛騨高山)の悪童の旗頭であったとき、家が警察署の前であったので当時、警察の若い小使さんから我々悪童グループに撃剣を教えてやるから来いと道場に連れ込まれ、大人の剣道具に中太の竹刀を与えられ、数人一度に俺に掛かって来いと言う指導?に始まり基本も何もあったものではない所謂、 殴り込み、土突きあいのおよそ剣道とは程遠いものであった。然し、運動好きな悪童にはこれが当時流行した子供相撲以上に面白く、毎日学校が終わると直ぐ道場に入り、小使さんの居ない時はお互い同志勝手に殴り合いをやって学校で先生にしかられたウップンを晴らしたものであった。こんなことが1年程続いたとき、街の有力な剣道愛好者が尚武会なる組織体を作り、警察の道場が使用されたので、我々も自然その中に吸収され素振り等基本らしきものを教えられたのであるが、主任指導者が山田実と言う女子尋常高等小学校の先生であったので、女生徒が沢山入会し撃剣の場のみ私の街としては珍らしい男女共学であったことが、一生忘れ得ない想い出である。
小学校高学年、旧制中学と当然撃剣部に入り、田舎では一応、撃剣の選手として活躍したが、本格的稽古に入ったのは大正15年よりの京都に於ける修行で、当時、在京の諸大家から厳しく且つ温いご指導を受けたのである。私は最近になり剣道の奥底にある心の作用と実技との結びつき等についていささか勉強らしきものをはじめた。その結果、人間の神秘性や真理の価値観等、或時は迷い、或時は自信めいた持論をいだき、先人が生と死の次元からより高い天地物なき境地へと人力の極限を求めた剣道の深さや難しさに驚き、且つ尊敬をもち、宗教にも似た剣道観をいだくようになった。 私は、この60数年間、幾度か剣道により生命を救われ剣道の恩恵をじかに感じて今日まで生きてきたが、限られた紙数なのでその一つを述べ他は割愛する。
私は、昭和12年過労のため肺結核に倒れた。戦前派の方には当時の肺結核が如何なる環境にあったかご理解戴けると思うが薬はなし、手術法もない、しかも伝染病として忌み嫌らわれ今日の癌どころの騒ぎではない。頼みの綱は結核治療の三大原則、大気、安静、栄養だけである。その中で一番難しいのは安静の項である。第一に心の安静と共に肉体の安静である。そのどれもが大変困難なことで、不治の病とされ、隣人にも恐れられ敬遠される病人の心に安静を望むのは実に木によって魚を求めるの類であったが、如何なる難病者にも絶対必要なことは心の安静で、その要諦は先ず生か死か二者択一で中間はないと云うことである。生を望むためには当然、努力が必要であり、その努力は並大低のものではないことも亦必然である。この治療、そして処世の大原則を、私は剣道の古訓の中から発見した。それは一刀流の開祖伊藤一刀斎景久が遺した「稽古中気は大納言の如く、業は小者中間の如くすべし」という言葉である。即ち治療法としては心は大きく行動は小さくと言うことであり、迷い続けた3年間の臥床中病状は悪化の一途を辿り、死を待つばかりの時翻然この一刀斎の心法訓に向かっての努力が始まった。その結果、40度の高熱は日毎に下り10日間にして微熱、主治医の驚きと喜びは今尚私の脳裡を離れない。以上2ヶ年にして完治夢にも思わなかった竹刀を再び握ることができ、爾来私は稽古と共に剣聖の訓を捜し求め、これを人生の指針としている。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。