図 書
現代剣道百家箴
有難き剣の道
長谷川 平記(剣道範士八段)
過去50余年にわたる修業の歴史を省みるとき、私は剣の道を学んだことを真実良かったと、この道の重厚さ、深遠なるものに対して心底より感銘している。
そして、命をかけた真剣さで打ち込む一刀一刀に、己れの持つ力の全てを投げ出す修業から得たものの一切が、ささやかな私の処世、人生観、社会観に有形、無形、又、意識、無意識のうちに顕れ、生かされ得るものとなって、いつの日か昇華されるべきことを73才の今日もなお信じている。有難きは剣の道である。
なお、この度連盟よりのご依頼で、おこがましくも二、三私の哲学を申し述べさせていただくことになった。多少でも後輩のかたがたのお役に立てば幸甚と思う次第である。
1、心の鏡
剣道で、「心は明鏡止水の如く」と教えている。人の心は常に鏡のように止水のように濁りなくありたいという意味である。相手が正か邪か、敏か鈍か、剛か柔か、傲慢か卑屈か、その心の動きを見極めねば勝を制することはできない。試合は心の鏡の写し合いであって決して腕力では勝てない。己れの心が曇っていては相手の心の真実は写らない。即ち正常な判断を妨げるのである。止水には満月は満月、三日月は三日月、花は花として写る。世の中の誤解は心に波があって三角を菱形に見たり、赤を青に感じたりすることから生ずるようだ。誰人も森羅万象ありのままを見る心眼を養いたいと思う、とりわけ人を見誤らないことは人生に於いて最も大切なことではなかろうか。
2、剣、すべて人間修養
私は剣道の修業は、即人間としての修養であると心得ている。
偉い先人の教訓格言を範とするもよし、先輩の教えを乞うもよし、数々の指導書に頼るもよし…然し乍ら過ぎたるは及ばざるが如く剣技のみの修業に走る余り、人間性を失い、活力も弾力性も喪失した人間ができ上ることがある。彼等は修業という言葉の網にかかった魚であることに気付かない。俗界を離れての修業は単に修業の為の修業となり果て、味噌臭い味噌が必ずや上味噌ではない様に真の意味の人間性の涵養にはならない、誰人も人間として活動的であり、喜怒哀楽の感情を殺さず、人間味豊かに社会の為に役立ちたいものである。
万巻の書物を読んで如何なる人間ができるか、30年座禅を組んで如何なる人間となるか、50年剣を学んで如何なる人間とならんとするか…以上は目的ではなく手段に過ぎない。要は如何なる人間が完成するかにある。
書を読まずして読んだ人に優り、座禅を組まずして組んだ人を超え、剣を学ばずして高段者に勝る人の多いことを忘れてはならないと考える。
3、力とは何か
私はかねてから学生、生徒に対し、柔道三段になって畳の上で背負い投げで立派に勝ち、或いは剣道三段になり床の上で相手の面を打って勝つ、その修練の場に於ける強さを人間の強さとして体得せねばならぬと訓えてきた。
然るに修練の場を離れたとき、僅かな酒や金に足を取られたり、かよわい女性に背負い投げを食ってしまう輩の何と多いことだろう。 これでは三段とはいえない。真に強い人間とは、例えば痩身卑弱であっても誰にも打たれない。投げられない人間であると訓えた。力を以って勝つ者は力に依って敗れる。才能を以って勝つ者は才能に依って敗れる。金を以って勝つ者は金に依って敗れる。「徳」を以って勝つ者は永遠なりと聞く。味わうべきことと想う。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。