図 書
現代剣道百家箴
武者修行の心
福岡 明(剣道範士八段)
強烈な意志をもって自己の限界に挑戦し、広い視野を求め、強剛な胆力をねり、必勝不敗の戦法を身につけようとする意欲が剣道を志す者にとって一番大切なことである。言いかえれば剣の道に邁進する心が武者修行の心であると思う。私は過去をふりかえり、塾生の頃と秋田県の児玉道場を訪れたことを中心に述べてみたい。
私は少年の頃単身上京し、高野佐三郎範士の塾生となり厳しい修行を続け偉大な薫陶をうけた。今思えば塾生になったこと自体が武者修行だった。打突のほか、体当り、足がらみ、組討が盛んに行われ、自分より強い者ばかりの稽古は実に苦しく辛かった。塾生になって間もなく恩師と一緒に戸山学校や陸軍士官学校等へ稽古に出かけた。座って休むことができず、打たれ突かれ、ふらふらになって立っているのが精一杯だった。陸軍士官学校では助教から次から次へとかかってこられ、打突され投げられ組討され、とうとう窓の外へ放り出された。 何とか稽古の時間だけは堪えた。剣道着をぬごうとすると肘が血でべっとり、入浴の際当番兵が二人、遠慮するのを無理にタワシでこするのでピクリピクリと反射運動、後でよく見ると肘の骨が出ていた。
大正11年4月、恩師の薦めで秋田県立大館中学校に奉職、近くの児玉道場を訪れることにした。道場主は児玉高慶氏、中山博道先生の門下で剣道五段、柔道も五段とか。体重三十三貫(約124kg)、米俵二俵(一俵は60kg)を足に縛り、俵は両脇に、三俵は背に自宅を一巡し、水田山林三百丁歩(約300ヘクタール)所有の大地主。前任者の太田先生は生徒を引率して訪問。両者の稽古は熾烈を極め、児玉先生の突きがはずれ襟に止まるや太田先生を竹刀の先で差し上げ炉の中へ入れようとしたとか。
私は驚いた。卒業生や生徒の熱望もあり、8月末、泉通四郎、小笠原一郎、横田正行、西村軍二郎、本田重遠等を引率して児玉道場を訪問。 緋塗りの膳が並べられたが、横田君の母親の弁当で腹ごしらいをした直後だった。
三十三貫の巨体は実にすばらしく山のようだ。体重は私の倍もあろう。短軀の私に慇懃に頭を下げられ嬉しそうな表情だった。
道場はランプの灯。最初は先生と一騎打、私は失礼して上席、互に中段、私は面を打った。児玉先生はしきりに突き色を見せる。私も猛然と突いた。甲手を打たれ胴を打った。先生は「参りました」と一礼して引き下った。一同稽古、私は五六十名を相手にある者は首に、ある者は足にとびつき組討の連続。烈しく闘った。暫くすると元立ちは私一人だけ。長い時間が過ぎて面紐がとけたのでしめようとすると右手中指が痙攣自由を失う。内心困ったと思ったが他の人がしめ直してくれた。何時の間にか調子がでてきて元気一杯、気合も充実、相手かまわず力いっぱい突いた。足がらみで投げた。一同逡巡出る者は一人もなくなった。稽古は終わった。時に10時30分。その夜はねんごろに歓迎会を開いて頂き感激した。
その後水戸を始め見知らぬ土地の道場を何度か訪れ闘志を燃やした。何が何でも勝たねばならなぬ。鍛練に鍛練を重ねる20代だった。
そして日本一の野心。
私は意を決し大館中学校を退職、上京してもとの古巣の神田修道学院へ舞いもどった。先輩である高師の佐藤卯吉先生、荒木敬二先生始め大村、大沢、乳井、高橋、黒崎君等と日夜はげしい稽古をした。その他音羽の野間道場等で武者修行の心を発揮して練習した。持田先生、斎村先生、白土先生には特にご指導を頂いた。
昭和14年明治神宮国民体育大会一般剣道優勝試合千葉県代表専門家大将で出場、チームとして優勝を逸したが、私は決勝戦でも勝ち全勝した。恩師高野先生からは今日の君の試合は名人芸だとお褒めの言葉を賜った。
また昭和15年紀元二千六百年記念宮崎神宮奉祝剣道大会や宮内省主催若手教士12名特別選抜優勝試合にも選ばれた。
正宗の名刀は物を切らずに避けると言われる。鍛練期における武者修行は何が何でも切る刀の時期で、これを過ぎて始めて円熟した精妙の域に達することができるのだと思う。
恩師高野先生は絶えず「尊敬される人間になれ」とさとされた。私も恩師の理想を理想として生きてゆきたい。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。