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剣道と「き」
第3回 樗山と『天狗芸術論』
全剣連 広報・資料小委員会 委員
埼玉大学 名誉教授
大保木 輝雄
江戸時代中期、泰平の世となり、変質しつつあった剣術に対して本来の意義を説き、「気」を中心とした難解な「心法論」を寓話によって易しく説いたのが、佚齋樗山です。戦争を知らない世代が、平和な時代における武術をどう位置付けたらよいのか。樗山は、時代こそ違え、現代の我々と同じような時代の趨勢にあって武術の問題を本来の姿へと導き、以降の武術家に多大な影響を与えました。
『猫の妙術』(「田舎荘子」に収録)は武芸の秘伝書として読まれました。そしてその2年後、享保14年(1729年)に発刊されたのが近世武芸気論の決定版『天狗芸術論』で、寛政期に『武用芸術論』として改訂され、100年以上も読み続けられたのです。
1.樗山とその時代
樗山は1659年生まれ。本名は丹羽十郎右衛門忠明といい、関宿藩(千葉県)久世大和守の家臣で、知行300石、旗奉行などの役職にありました。関宿で83歳の生涯を終えましたが、この間に前号で述べた熊澤蕃山と出会い、自らの思想形成上、大きな影響を受けたものと思われます。樗山は兵学・武術はもとより神・儒・仏・老・荘・禅に造詣が深く、文筆の才能豊かな人物でした。特に荘子についての見識は卓抜しており、荘子の表現方法である「寓言」などを方法論とする散文は、武芸界はもとより当時の文芸界にも多くの影響をもたらしたのです。
樗山が生きた時代は、八代将軍吉宗の治世下、行政改革、文武奨励、庶民教化などを旨とする享保の改革(1716~45)が断行された社会の大変革期で、経済的・社会的困難を克服するため、庶民の意識変革が企てられた時期でした。元禄時代に流行した好色本、浮世草子も下火になり、「権現様」(家康)の復古を目指した質実剛健の気風が要求された時代。下級武士や一般庶民を対象に啓蒙活動が盛んになり、その一端を担った老荘思想の一番手として忽然と文壇に登場し、一世を風靡したのが樗山の作品だったのです。
2.『天狗芸術論』について
『天狗芸術論』の趣旨は「一心の明悟」「とにかく自性を学び給え」ということです。「自分とは何ものであるかを自分自身に問え」、そのためには「妄念をはらい、自ら慎み、心を澄み切った状態に保つこと」以外にないのだと言及・断言し、なぜそうなのかを「気中心の理気一元論」で説明しています。
『天狗芸術論』中にみられる「気」の用例は、237例にも上ります。「気」は「陰陽清濁のみ」で、「生のみなもとなり・心を載せて形を使ふ者なり・心にしたがふもの・霊明にしたがいて活達流行するもの・生活して滞ることなく剛健にして屈せざるを要とす」と表現される一方で「気」には「惰気・邪気・死気・浮気」など「霊や根」のないものがあり、それらは妄動して運動の応用自在たることを妨げる要因となるものである、と説明しています。だからこそ剣術によって「形」を正しくし、「事」を習熟することによって「気」の働きを見極め、「生死の理」を体得しろ、というのです。そして以下のように結びます。「学術剣術ともに只おのれをしるを以て専務とす。おのれを知るときは、内明かにして能く慎む。故に来りて我に敵すべき者なし。―中略―只おのれを尽くして無慾なる者は、討つべき虚なし。勢いを以ても挫くべからず。慾を以ても動かすべからず。巧を以ても欺くべからず。」
3.『天狗芸術論』の今日的意義
樗山は当時の青少年の気風や教える者の在り方を次のように記しています。
「今人情薄く志し切ならず。少壮より労を厭い簡を好み、少利を見て速やかにならんことを欲するの所へ、古法の如く教えば、修行するものあるべからず。今は師の方より途を啓きて、初学の者に其の極則を説き聞かせ、其の帰着する所をしめし、猶手を執りて是を引くのみ。かくのごとくしてすら猶退屈して止む者多し。修行は薄く居ながら天へも上る工夫をするのみ。これまた時の勢いなり。
人を導くは馬を御するがごとし。其邪にゆくの気を抑えて、其のみすからすすむの正気をたすくるのみ。また強ふることなし。」言い得て妙。これはまさに、現代の世相そのものではないでしょうか。
(つづく)
*この『剣道と「き」』は、2004年9月〜2005年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。