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剣道と「き」
第4回 武道教育における「心」の問題―蕃山、樗山、鉄舟―
全剣連 広報・資料小委員会 委員
埼玉大学 名誉教授
大保木 輝雄
1.「樗山」が求められる時代
教育問題が議論される中、「心の教育」「生きる力」という言葉がクローズアップされ、キーワードとなりました。これらは戦後数十年間の「平和」の中で、経済的・物質的な豊かさを求めてひた走ってきた日本が、一定程度その課題を達成したものの、その基盤をなしていた精神性を損なってしまった、との危機感から発したものです。日本の土壌に根付いていた人と人、人と社会、人と大自然との関り方、つまり「関係性を重視する」精神風土に大きな変化と歪みが生じてきたことの証でもあるのでしょう。
江戸時代中期、佚齋樗山が「心の問題」を中心に新しい武芸論を展開した背景には、現代の私たちを取り巻く諸状況とたいへんよく似た時代の空気とでもいうべきものがありました。そもそも樗山が執筆活動に精を出した理由は、武士の本分であった実戦はすでに遠い記憶となった泰平の世の有り様を憂い、自分の子孫の行く末を心配して彼らのために書き残すためだったといいます。
『天狗芸術論』の序に、樗山と親交のあった市井の兵学者、神田白龍子が次のように述べています。「―前略―世の刀剣を習ふ者の、其の本を失ひて、其の末に馳せ、其の理に泥みて、其の業を捨て、悉く刀剣の正理に違へるを嘆きて、天狗芸術論一帙を綴り、以て童蒙に授く。―後略―」。
戦闘体験のある武芸者が世を去り、平和な時代になって士風も変化し、「組太刀」に秘められた真のメッセージを汲み取ることはすでに困難となりつつある中、それを補完するかのように、武芸の本来的意義を説く佚齋樗山の啓蒙書が忽然と現れたのです。それは、「心」の在り方を指し、日常万端世間の事と剣術の事は別物ではない、と説き、剣術の技を使う時に心の「邪正真偽」を吟味し、それを「日常応接の間」に試し、「正が邪に勝ち真が偽に勝つことを自得せよ」と強く迫るものでした。つまり、非日常的な剣術の世界と日常の生活世界とはその根源において地続きであり相互補完関係にある、との核心をつき、「勝負」とは、質が転化し別物になることであり、剣術という「勝負」の場を通じて、「生死のことはすべて気の変化のみ」といった「人の気」を質的に変容させることだ、と流祖の体験知を理論化し、当時の人々に理解し易く説いたのでした。
樗山が残した武芸伝書は、多くを熊澤蕃山の『藝術大意』を原点としていることは、以前に述べた通りです。『猫の妙術』は、「三代の古未だ剣術の名あるを聞かず。戦国の時に剣士あり、其術を試むとも其道の自然によらず、皆相打ちて勝つ事を務むるのみ。只荘周が闘鶏の論のみ、暗に剣術の極所を悟る」との下りに着眼して著されたものだと考えられますし、『天狗芸術論』に至っては、書き出しの文章がほぼ同じです。1619年生まれの蕃山に対し、樗山は1659年生まれ。ふたりの年齢差はおよそ40歳で、当時とすれば、蕃山にとって樗山は孫の世代にあたる年関係でしょうか。若き樗山が蕃山と親交を持つ中で、蕃山の武人としての身体知に裏付けられた新しい武芸気論に熱心に耳を傾け、泰平の世にあって武芸のあるべき姿を見出していったのは容易に想像のできることでしょう。
2.蕃山が生んだ「武道」の概念
蕃山の生きた時代は徳川幕府の草創期であり、戦乱は収束したものの、まだあちこちに残り火がある有り様でした。蕃山自身、彼の20歳以前の頃を、「江戸づめにて山野のつとめならぬ所にては、鑓をつかひ、太刀ならひ、とのゐの所にも、ねつヾらの中に太刀と草履を入、人しづまりたる後に、広庭の人気なき所に出て、闇にひとり兵法をつかひ火事の時にも、見ぐるしからじと、人遠き屋の上をかけ候へば、まれに見付けたる者は、天狗やいざなはんと、申たるけに候」(集義外書巻二)と、武人としての心身鍛錬、武技の練磨にひたすら精進したことを述懐しています。蕃山は、戦国武士が戦場で命のやりとりを繰り広げた実戦の空気とでもいうものを、かろうじて体験知として持っている世代でした。蕃山が後に構築する「勝負の哲学」が、それまでの儒学者や陽明学者の論を凌駕しうる質を持つのは、このような彼自身の体験があったからに違いありません。
しかし、蕃山は島原の乱を契機に学問へと人生の大転換を図ります。「我年たけて問学せんとす。文才なく文字なし。気力盛んなりし時は、不幸にして学あることを不知。無用の事に精神を労し、病気に成りて後、22歳の時、初て四書の文字誌を習ぬ」(集義外書巻六)。「天下布武」の実現によって政治を司るようになり、戦乱の世においてセキュリティを一手に担ってきた武士の役割が、大きく変わろうとしている。それを体感した蕃山の目には、泰平の世における武士階級のあるべきビジョンが鮮明に見えていたに違いありません。
武芸のみならず、笛、琵琶、琴などの達人でもあった蕃山は、技芸を追求する過程で、技芸の向上が心の変容をももたらし、それこそが「大道」への入り口となることを熟知していました。巻頭部分に「幼年の時より六芸に遊ぶときは、志主する所ありて自ら鄙俗の辭気に遠ざかる。玩物嬉戯の此心淫する事なく、放僻邪侈の此身を危くする事なし。外には筋骨の束を固くして国家の用をなす。少しく君恩忘れざる所あるか達して心術を証する時は大道の助となる」とあるように、かつて中国の科挙の必修科目であった六芸(礼・楽・射・御・書・数)を修めることの重要性を剣術に対応させ、泰平の世における武術の個人的意義や社会的意義を整理し、それを「道」の概念を導入して普遍化させました。今日の「武道」概念の萌芽をここに見ることができるでしょう。
3.泰平の世の武道の在り方
蕃山は、流祖が示した剣術の真意を明らかにしつつ、中国古典の言語を駆使して、これからの剣術は「心術」を証するための剣術でなければならないことを力説し、「心法」による勝負の哲学を構築しました。「夫れ劍術は止むを得ざる事に起る者なり。不得止相迫る時は勝負なき事あたはず。天地の間、陰陽相迫って、而して進む者伸る者は勝なり。相迫って、而して退く者は負くるなり。天地は無心にして、只陰陽の昇降の自然に任するのみ。陰陽昇降の中に、大極あって存す。大極は至誠の理なり。色もなく形もなく聲もなく臭もなし。只陰陽の主と成りて、感に従って風雷雲雨を起すなり。万物を化生するの事を用ふる者は陰陽の気なり。勝負は其應用の迹なり。理気相乗じて不測の霊妙をなす、それを神と云ふ」。根底に宇宙の運行を置き、勝負の場においてはよく気を修していれば自然に勝つのが道理だというのです。
蕃山はまた、泰平の世における独自の剣術論を以下のように展開しています。「未だ劍術の名なしと雖も、射術の中に劍術の理備わり、古は射を以て其人の徳を知ると言へり。今の劍術も其體は治の備にして心術を証し、其用は士たる者生死の間に用ふるの術なり。何ぞ私意を用ひ争ひを主とせんとや」。
4.武道と心の問題
蕃山は最後に、「今の人は信篤からず、故に志堅固ならず。外誘に引れて、心法の事は企て及ぶべからずとして、自ら盡して進まざるのみ。只意識の才覚を用ひ、即功を立て始終を省みず、古人を迂なりとして、時の間に合はするを以て知ありとす。是を小人の中庸と云ふ。―中略―心體を見るの工夫は、勗めて妄情を去るに在り。妄情は惑を根として物欲に生ず。―中略―常に物欲を制し惑を解きて、心法の手を下す所とす。此れ其の大略なり」。これこそ、物質的な豊かさや安定した生活が、必ずしも心の豊かさや平穏をもたらすものではないと気付きつつある私たちの心の在り方に、大きな示唆を与えるものではないでしょうか。
幕末に活躍した山岡鉄舟は、樗山の『猫の妙術』をひそかに愛読していたといわれています。鉄舟は、剣の道の何たるかをただ一筋に考え、『猫の妙術』にそれを見出し、その世界の真偽を剣術において実践すべくひたすら精進を重ね開悟した、と述懐しています。
剣道を学ぶということはどういうことなのか。「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」という現代剣道の理念には、蕃山、樗山、鉄舟をはじめとする、剣で生きた先達の息使いが込められているようです。日々の稽古を通じてそれを探していくことは、蕃山が「聖人と雖も、人に道を悟らしむる事能はざる處なり。其極則は自修するにあるのみ」と言うように、「自得」以外に方法がないことも、確かなことなのです。「冷暖自知」の真意再考の時期が到来したようです。
(つづく)
*この『剣道と「き」』は、2004年9月〜2005年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。