図 書
剣道と「き」
第9回 現代剣道と気
全剣連 広報・資料小委員会 委員
埼玉大学 名誉教授
大保木 輝雄
1.現代剣道の場と間
近世剣術と現代剣道の接点を探る試みとして、ある実験をしたことがあります。
まず、お互い道場の端に立って、一方の人はその位置に止まり、相手の人にゆっくり近付いてもらいます。そして、相手が自分の気持に変化を感じたら、止まってもらいます。これを剣道経験者・未経験者を問わず実施したところ、大多数の人が「九歩の間合」で止まりました。さらにその距離から近づいてもらい、また気持に変化を感じた時点で止まってもらうと、1歩踏みこんで手を伸ばせばお互いの身体に届く距離になりました。さらに相手に近づいてもらうと、その場から直接身体に手が届く距離で止まってしまったのです。この間隔をさらに縮めようとすると、自分の身体はひとりでに動こうとし、身体をその位置に留め姿勢を崩さないためには、非常な努力と意志を必要とすることが実感されます。
つまり、自分と相手の距離の遠近は、自分の心と身体を繋ぐ感覚(気持)に変容をもたらし、自己の内的統一性に変化を余儀なくさせるのです。
このように考えると、「九歩の間合」(相手と自分が特別な関係をもったと意識する認知距離)、「一足一刀の間合」(意識と身体のもつ本能的機能が混在して働きだす情動距離)、「攻防の間合」(本能的反射的に身体が動き出してしまう反射距離)という三つの転換点のあることが、よくわかるでしょう。
自分と相手との間には、相手自体の発する何かと自分自身のそれによって一種特別な気分が充満し、意味ある空間(場)が形成されます。これが、「間」というものです。そして、「間」の遠近は、自分の内部で意識と本能との間の差異として自覚されます。このように「間」に充満して流れ、自己の心身の間にも流れていると感じられる動的実体を、武芸家は「き」と名付けたのではないでしょうか。
2.「一足一刀」の間合の重要性
実際の稽古や試合での場面を振り返ってみると、一足一刀の間より近くに入ると、精神的に緊張してしまい頭の中が真っ白になり、手や肩に力が入って足が地に着かず、自分が何をしているのか分からなくなってしまう経験は、誰にでもあることでしょう。同様に、自分より強いと思っている相手に対して我知らず退いてしまったり、相手に近づかれて思わず手元が浮いてしまうこともあります。これは、先に述べた実験で明らかなように、自己の心と体に変化が起こり、内的統一性が崩されることが原因です。
幕末の剣術家、窪田清音の『剣法幼学伝授』には、「場間の事」として次のような記述があります。「構へを正し掛合せたるとき相手の距離を謂ふ。其の大略は太刀先二三寸も合ひ、互に一歩を進むるときは打ちも突きも相達すべき處、即ち場間なり。然れども場間を縮めず、進まずして、達すべき處へも入り、或は一歩を進むるも、達せざる地にも構へ、場間を縮め、場間を切り隔つるは、其の時の勢に依り変化極りなく、其の程度に随ひ場間を取ることは易からざることなり。常に心を用ひて自得すべし」。
「一足一刀の間合」(上記の「場間」)は、剣道の勝負を左右する最も重要な間合です。つまり、相手と自分によって形成される勝負の空間において情動が際立ち、四病(驚・懼・疑・惑)が表面化し、意識と無意識のズレが身体の動きとして顕在化する場なのです。
3.「勝負」と「心気」の創出
前々回にも述べましたが、清音は、「いまだ勝負わからざる内、かまえを中段または下段に備、いかにも堅固にして気を押さえ、次第に場合をつめ進まばいかがせん」といった状況の中で「気」を論じました。そして、「居つき居つかざるは心気のめぐりにあること也」と述べ、勝敗を決する「場間」においてこそ「心気」の鍛錬が問題になることを強調していました。清音の『剣法形状本義』には、勝負の場で「心気の病は形に顕はれ、形の病は心気に移る。故に初学の士必ず形を正しくし、天性に随ひて習ふときは、心気鎮静し、動揺することなく、勇敢にして難なかるべし」と、「天性の形」(姿勢)が整えばおのずと「心気」が納まるものだと述べています。動揺することなくいかに自分の力を存分に発揮できるか、自分の培った技をいかに自在に「つかえる」か、清音はこのレベルで「心気」のことを問題にしていました。
迫り来る敵に対し自分の心と体の調和を維持させながら、どのように相手と対応するのか。武芸心法論のテーマであったこの問題は、現代においても、剣道をする私たちに連綿と問われ続けているのです。
(つづく)
*この『剣道と「き」』は、2004年9月〜2005年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。