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剣道と「き」
第10回 武道「気」論の近代的展開
全剣連 広報・資料小委員会 委員
埼玉大学 名誉教授
大保木 輝雄
武芸伝書に著わされた気の問題は、昭和という時代にどのように受け継がれ、読み解かれたか。その一例を、1912年(大正元年)に刊行された幸田露伴の『努力論』に見て取ることができます。露伴は、その高邁な学識と卓見によって、脈々と流れてきた気論という地下水脈を、近代という時代の中で、あたかも豊かな湧き水のごとく出現たらしめました。
ここでは『努力論』における露伴の気論を心理学の立場から検討し、多くの武道関係者に読まれた『武道の心理』(田中秀雄著、昭和17年発行)に記述された「気の諸相」を取り上げ、近代気論の展開について考えてみます。
1.田中「気」論
田中によって示された「張る気」「澄む気」「冴ゆる気」といった三つの気の有り様は、その道に精進した芸術家や武道家などに見られ、好んで使われる表現です。
心理学者の田中は「心・気・力」について「力とは技と同じ意味でありまして、主として武道の技術に関する分野を、心とはその心理的方面を抽象したものです。―中略―気とは、この心と技との基調をなし是等を発動促進する原動力をなすところの精神力、生命力を謂ふのでありまして、これは特に試合に際し、大切な役割を演ずるもの」と述べています。更にこの「気」は、錬成の経過に伴って「漸次向上進歩する」ものであり、錬成前期では「張る気」の態を、錬成後期においては「澄む気」、さらに完成期に入ってからは「冴ゆる気」の相をなすものだと展開します。ここでは、「気は進化、あるいは深化を遂げる」という指摘が重要です。
2.「張る気」について
では、「張る気」とは如何なる状態を指しているのでしょうか。田中は、それは「あたかも暁天の如く、進潮の如く、凡そ内にある者の外に向って広がり伸びんとする気を指し」「気魄」と呼んでもよい、と述べています。夜明けの空が刻々と陽気を増し、潮が押し進んできてふせぎとめることができないほどの勢いをイメージさせる状態です。これは努力と違い、努力する意識がなくて内側からあふれ出る元気によって自ずから努力している状態で、「敏にして的確、機を逸せず適措置をとり、敵対観念も目立ず本当に奇麗なすがすがしい感じ」がするものだと規定しています。「張る気」の反対は「弛む気」です。大自然の諸相では、落日や退潮に相当するものです。人間にあってもこの両方の気が往来します。こと勝負の場にあって「弛む気」は油断となり忌避すべき気で、田中は「逸る気」、「凝る気」、などを挙げています。また、気魄と闘志は、「勝利を信じ撥刺の意気に燃えている点では両者共通」であるが、気魄は「内心より盛上がる元気」なので「明朗豁達で一種壮快の気が漂」い、闘志の特徴は「対敵観念が熾烈」なので「一種凄惨気が漲る」と区別しています。
更に、「張る気」は「驚、懼、疑、惑」「怒、侮」といった情緒や感情に左右され、萎縮した「縮む気」や自己陶酔的な「亢ぶる気」などに変化し不覚を取ることになると注意しています。
3.「澄む気」と「冴ゆる気」
田中は、「張る気」の状態を研鑽し続け、「その人のその時の最高能力を傾倒して残すところなければ」知らず知らずの間に「澄む気」に至るといいます。つまり、心理学的には「凡ゆる感情の根底に横はる基調的な感情質として快・不快の二方向の存在する他に、快でもなく不快でもなく又両者の混合でもない中性的な第三の状態」(無記感情)があり、「澄む気」の状態がそれに相当するというのです。その特徴は「驚・懼・疑・惑等の本能的情緒に乱されることもなく、更に栄誉や功利の俗念よりも離脱して、淡々たること水の如く、平静なること鏡の如き」心境にあるといいます。
最後に「冴ゆる気」は、「私は生死に対する解脱を契機として気も亦、『澄む気』より『冴ゆる気』へ進展するものと考へてをります」と結びます。
近世気論は露伴によって身体性と芸術性の絡みの中で再構築され、さらに、田中によって、勝負の場での心理論として展開されたといえるでしょう。
(つづく)
*この『剣道と「き」』は、2004年9月〜2005年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。