図 書
剣道みちしるべ
第5回 「剣道指導の心構え」について①
総務・広報編集小委員会(当時)
真砂 威
本年(2007年)3月14日に、『剣道指導の心構え』が制定されました。「竹刀の本意」「礼法」「生涯剣道」の三本の柱からなるものです。その内容と制定に至った経緯については、「長期構想企画会議報告」として、昨年12月から本年4月まで、5回にわたって本誌で連載されておりますのでご覧下さい。ところで読者の皆さんには、この『剣道指導の心構え』の制定が大きな社会的意味を持っている、ということに思いを巡らせていただきたいのです。
ご存じのとおり、安倍晋三前総理が「美しい日本」と「戦後レジームからの脱却」をかかげ、教育基本法の改正をはじめとするさまざまな改革を推し進められました。″レジーム″とは、フランス語で「体制」を意味するとのことです。さても″戦後否定″か…。そうではなく、安倍前総理の言われた″レジーム″の表現には、戦後日本の成功裏に隠された″悪しき部
面からの脱却″というニュアンスが感じ取られます。
わが国が戦争に負けたのは昭和20年(1945年)ですから、今から62年前のことです。アメリカの占領支配下で剣道は禁止やむなきに至りました。本年は全剣連発足55周年の年です。それは、ほぼ7年間にわたる受難の時代があったということの裏返しです。
太平洋戦争での敗戦は、わが国古来の武道に壊滅的な打撃を与えました。武道はGHQ(総司令部)から、国家主義、軍国主義に加担していたという理由で禁止され、指導的立場にあった人たちは公職追放という憂き目に遭いました。
また戦後の日本は、占領軍の指導のもと、戦前を完全に否定した教育改革が行われました。民主主義が強調され、他のスポーツはますます盛んになった一方で、武道は全く反対の道を辿らざるを得ませんでした。その後、学校教育として復活を果たしますが、「武道」の名を冠することは許されず、「格技」と呼び名され、スポーツの衣を着ての再出発でありました。柔道、剣道など、名称に「道」は付されていても、それは日本古来の「道」の思想や教えに根ざすものではなく、単なる競技の″種目名″としての呼称にすぎないものでありました。
特に剣道に対する弾圧は熾烈を極めていたようです。当時の占領軍による弾圧ぶりをうかがわせる例を一つあげてみましょう。戦後、剣道を復活させようとする動きの中で、関係者は再出発に際し「剣道」の呼び名を自ら憚って、「撓競技」という名称で新連盟を発足させた経緯があります。「しない」で打ち合う「競技」ということでの命名でしょう。米軍が極端に日本刀を恐れたということから、「しない」という文字も、「竹刀」の表現を避け、「撓う」の字を使わなければならない状態でした。柔道は、嘉納治五郎がIOCの委員でもあり、世界に柔道を広めた功績があったため、占領軍の理解も得られ比較的早く復活を果たしたのですが、剣道が正式に復活するのは、昭和27年(1952年)の講和条約が発効した後のことです。
その純粋競技スポーツとして再出発した剣道界が、いわゆる「戦後レジームからの脱却」をめざすのは、それから十数年の歳月を経てからのことです。そして昭和46年(1971年)には「剣道指導理念委員会」が発足します。剣道復活に当たっての苦難の道はいかほどであったか、と、われわれは今ひとたび思い起こす必要があります。
(つづく)
「格技」という語は「combative sports」の訳語として誕生したものです。「武道」という言葉が「military art」と訳されるものならば、GHQが許可しないであろうということで、柔道、剣道などを総称して「格技」という名称を使うことにしました。ゆえに、競技スポーツ性を前面に出しての出発とその推移であった点に憾みが残ります。戦後40数年を経てようやく、平成元年(1989年)の学習指導要領改訂により、「武道」に名称変更されました。
もともと「しない」の語源は、″撓い″からきており、「竹刀」と当てられたのは後からのことです。くしくも「撓」という原初の文字を冠しての再出発となります。
*この『剣道みちしるべ』は、2007年8月〜2010年1月まで30回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。