図 書
剣道みちしるべ
第7回 「剣道指導の心構え」について③
総務・広報編集小委員会(当時)真砂 威
前回も申しましたが、『剣道の理念』が意外と若い剣士には知られていないことがわかりました。「若年層の剣道が乱れている」とただ嘆いてもはじまりません。まず、「指導者に指針を与える必要がある」ということが発端となり『剣道指導の心構え』がつくられました。
剣道指導の心構え
(竹刀の本意)
剣道の正しい伝承と発展のために、剣の理法に基づく竹刀の扱い方の指導に努める。
剣道は、竹刀による「心気力一致」を目指し、自己を創造していく道である。「竹刀という剣」は、相手に向ける剣であると同時に自分に向けられた剣でもある。この修錬を通じて竹刀と心身の一体化を図ることを指導の要点とする。
(礼法)
相手の人格を尊重し、心豊かな人間の育成のために礼法を重んずる指導に努める。
剣道は、勝負の場においても「礼節を尊ぶ」ことを重視する。お互いを敬う心と形(かたち)の礼法指導によって、節度ある生活態度を身につけ、「交剣知愛」の輪を広げていくことを指導の要点とする。
(生涯剣道)
ともに剣道を学び、安全・健康に留意しつつ、生涯にわたる人間形成の道を見出す指導に努める。
剣道は、世代を超えて高めながら学び合う道である。「技」を通じて「道」を求め、社会の活力を高めながら、豊かな生命観を育み、文化としての剣道を実践していくことを指導の目標とする。
指導者は、この『剣道指導の心構え』を『剣道の理念』、『剣道修錬の心構え』に続く三本目の柱として十分読みこなし、ぜひ指導現場で実践してほしいものです。
身近なことから
竹刀は″日本刀のつもりで扱う″とか″刀の観念で″といったことがよく言われます。実際、若い人たちの試合を見ると、竹刀を落とした場合など、片膝をつき作法にかなった仕方で拾われている光景が多く見られます。ふた昔ほど前であったら、みんなそのまま腰を屈め、むんずと拾い上げていたように記憶しています。戦後、復興途上において忘れられていたことが、いま蘇ったといえるでしょう。その拾い上げる作法には″洗練″というものが窺い知れます。
しかしながら別の場面では、竹刀を跨いで渡るといった″不躾″な姿も散見されます。大会会場が混雑していて仕方がないという理由もあるでしょうが、そもそも″竹刀や道具を跨ぐのはもってのほか″という指導が十分になされていないのではないでしょうか。また人の竹刀を跨ぐことは無礼千万なことですが、一方では跨がせないという心くばりもなく、床場に無造作に捨て置かれているのがよく目につきます。それでいて試合場面においては、押し戴くがごとく竹刀の取り扱いがなされているという、この矛盾をどのようにとらえたらよいのでしょう。
形のみを教えて「心を教えていない」ということなのでしょうか。大事なものは跨がないというのは古来から日本の常識です。まして武士の魂とされていた刀を跨ぐなんてことは論外です。大事なものが足元にあれば避けて通るか、さもなくば、さりげなく脇に寄せて進む、というのが日常の身ごなしの中でできなければなりません。こういったことは、もともと家庭で教えるべきものでありましょう。しかしながら、今の親世代は十分な躾教育を受けておりません。したがって自分の子供を躾ることができないのです。そこに、その役割として剣道指導者へ期待が寄せられるゆえんがあります。
せっかくつくられた『剣道指導の心構え』です。単なるお題目として棚上げせず、文言の一つひとつを指導者自身が十分咀嚼した上で、身をもって事細かく指導してほしいものです。
また礼儀作法も道場の中だけのものではないことをしっかり教え込む必要があります。剣道でいわれる「道」の精進は、道場での立ち居振る舞いがそのまま日常の生活規範となって現れるというのが特色とされています。ただ単純に、剣道をやれば礼儀正しくなり、秩序観念が育成されるというような皮相なものではなくて、生活のすべての秩序が「道」として表現されていくというところに意義があるといえます。
(つづく)
*この『剣道みちしるべ』は、2007年8月〜2010年1月まで30回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。