図 書
剣道みちしるべ
第18回 心すべきこと①
総務・広報編集小委員会(当時)
真砂 威
新年(2009年)明けましておめでとうございます。年があらたまり、いよいよ中学校での武道必修化が現実味を帯びたかたちで始動いたします。次には武道種目の中でいかに多くの学校を剣道選択に導くかが課題となってきます。《剣道が人間力向上に役立つことを前面に出していくべきだ》と、先月号で述べましたが、今こそ剣道の教育的価値を広く世間に知らしめる必要があります。
しかしその前に一つ、心しなくてはならないことがあります。
今年は戦後64年の年ですが、とりわけ剣道は、国家主義、軍国主義に加担していたという理由で禁止され、指導的立場にあった人たちは公職追放という憂き目に遭いました。今考えますと、あらぬ誤解を受けたものです。そして約7年間の禁止期間を経て立ち上がり、日の目を見るのに50数年の星霜を重ねました。
しかし、世の中にはまだ誤解のとけていない人たちが少なからずいます。ですからこのたび武道が必修化されることについては、われわれ剣道人には想像できないくらいの「剣道アレルギー」ともいうべき波紋を投じていることもたしかです。その中には体育関係者も多く含まれております。まずわれわれは、それらの人たちの誤解をとくことから始めなければなりません。それには正史を語ることが先決だと思われます。
ご存じのとおり戦前においては、武道は正課として採り入れられておりました。やがて戦時色が濃くなるにつれ国策によって武道奨励の度合が強まってきます。
中村民雄氏は、その編著『史料近代剣道史』で次のように述べています。
〈剣術(道)を正科に編入させようとする請願運動は、常に、何らかの政治的・社会的危機意識の高まりの中で主張されてきた。第一は、民権論と国権論が激しく対峙した明治十年代後半、第二は、日清・日露戦争前後の国粋主義台頭期、第三は、満州事変勃発以降の天皇制ファシズム下における戦時体制移行期、第四は、占領末期から講和条約締結後の右傾化の時期などである。〉
太平洋戦争直前における正科編入への動きと社会的背景の主な流れを順を追って見てみましょう。
・昭和12年
3月、第70帝国議会衆議院において「劍道を小學校竝青年學校の正科目と為すの建議案」が可決。
―7月、日中戦争に突入。
・昭和13年
3月、第73帝国議会衆議院において「武道振興ニ關スル建議案」が満場一致で可決。
―4月、「国家総動員法」公布。
・昭和14年
5月、「小學校武道指導要目」を公布、尋常小学校5年生以上の男子に準正科として柔剣道を科す。
―7月、アメリカが「日米通商航海条約」破棄を通告。
・昭和15年
7月、「武道振興ノ基調」答申、国民皆武の振興と啓発の必要性についてを言及。
―9月、「日独伊三国同盟」調印・「大政翼賛会」発足。
・昭和16年
3月、「国民学校令」公布、体操科は体練科と名称を変更し、独立教材群を形成する。
―12月、太平洋戦争に突入。
さらにその翌年の昭和17年になって、民間団体であった「大日本武徳会」(明治28年創設)が、厚生省・文部省・陸軍省・海軍省・内務省の五省共管の国家管理下におかれることとなるのです。教員の中で武道教師が優遇されたことは言うまでもありません。このように武道は戦争遂行のための中枢的存在に位置づけられ、剣道も次第に「戦技化」の道をたどっていったとされています。前掲書では、
〈三本勝負の形式が一本勝負に変更されたのは、昭和14年3月改正の「大日本武徳會劍道試合審判規程」においてである。さらに、同年6月27日、「凡ての競技は一本勝負が妥当」との持論を抱く石黒文部次官が岩原体育課長にその調査・研究を命じたことにより、一段とその方向性を強めていった。…中略…武道の戦技化と歩調を合わせ一本勝負が徐々に採用されていったのである。〉
と述べられています。また同書では、戦時下においては、竹刀の長さを短く重量を重く規定し、より日本刀に近いものへと改められたと記されています。このように国は、国家総動員体制のなか、実戦即応型剣道を提唱したことは想像に難くありません。
ところが当時、実際に巷で行われていた剣道の稽古は、これまでと寸分変わっていなかったようです。それどころか多くの剣道家は、剣道を戦技化へ傾けようとする風潮に強い憂慮の念を示していました。
(つづく)
*この『剣道みちしるべ』は、2007年8月〜2010年1月まで30回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。