図 書
剣道みちしるべ
第23回 道徳の国、日本
総務・広報編集小委員会(当時) 真砂 威
前回は「侍の国、日本」と題し、WBC連覇の「侍ジャパン」を取りあげ、新渡戸稲造著『武士道』の一部を紹介しました。
ところで最近、とみに″侍″や″武士道″がもてはやされるようになったように思われるのですが、なぜでしょう。
それは、現代社会に巣くうモラル崩壊現象への揺りもどし、ということもその一因と考えられます。―何かが大きく狂ってきた。かつてわが国は「道徳の国」と呼ばれていた―という国民全体の声無き声なのかもしれません。
幕末から明治維新にかけてわが国は、近代国家の建設をめざしていました。当時おびただしい数の外国人が来日していましたが、彼らが一様に称賛するのは、日本人の道徳心の高さであったとのことです。文明の遅れはあったとしても、人心の洗練度は高みをきわめており、西欧人が一目置かざるを得ない威厳を示していたと言われています。
わが国に対し強硬に開国を迫ったペリーも、日本の文化水準と能力の高さを十分認めたうえで交渉にあたったとのことです。最初の駐日総領事の米外交官ハリスも、日本人の質素、正直、態度の丁寧さについて、「他の国にはみられない」と日本人のモラリティーを誉めたたえています。また詩人W・ホイットマンは、明治維新を目前にした幕末、咸臨丸に乗って太平洋を渡航しアメリカに到着した武士たちに感銘を受け、『ブロードウエイの行進』という詩を寄せています。ホイットマンは、この武士たちのことを二つの語で表現しました。ひとつは「courteous(礼儀正しく思いやりのある)」、もうひとつは「impassive(超然とした)」という語です。
このように日本人に接した外国人は、国内外を問わずみな同じような讃嘆のことばを述べています。やがて日本人は、これらの徳性と固有の勤勉性を生かして西欧列強に伍する近代国家建設への道をひた歩むことになります。
では、なぜ、わが国が比類なき道徳の国であり得たのでしょうか。
じつは、わが国の道徳教育についての疑問を、自分自身に投げかけたのが上述の新渡戸博士でした。彼が『武士道』を著すきっかけとなった経緯を本書の中でこのように述べています。ヨーロッパ留学中における某教授との会話です。
〈「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教教育なし! どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹きこんだものは武士道であることをようやく見いだしたのである。〉
新渡戸博士は、「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」と説きおこし、「武士がその職業においてまた日常生活において守るべき道を意味する。一言にすれば『武士の掟』、すなわち武人階級の身分に伴う義務である」と喝破します。
次に、「義」「勇・敢為堅忍の精神」「仁・惻隠の心」「礼」「誠」「名誉」「忠義」「克己」など武士道の中味について論述しています。そうして武士の掟であった武士道が、やがて民衆への感化をもたらし、日本の精神的土壌に開花結実し、遍く国民の道徳教育となっていったかを説き明かしました。
この著は、新渡戸博士が38歳の年、明治32年(1899)に英文で書かれたものです。明治32年といえば日清戦争と日露戦争の狭間にあり、日本に対する世界の認識が極めて薄い時代でありました。当時のアメリカの大統領T・ルーズベルトは、この『武士道』を読み、すっかり日本びいきとなり、日露戦争の早期終結に力を注いでくれる緒となったと言われています。またアメリカのみならずフランス語、ドイツ語などにも翻訳されて世界のベストセラーとなりました。
あれから100年あまり経った現代日本において、今あらためて武士道さらには剣道を言問う必要があると考えるものです。
(つづく)
*この『剣道みちしるべ』は、2007年8月〜2010年1月まで30回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。