図 書
剣道みちしるべ
第24回 「道」について
総務・広報編集小委員会(当時) 真砂 威
新渡戸稲造博士は、病気療養中のアメリカで『Bushido―The Soul of Japan―』を著します。そして英文で書かれた同書はフランス語、ドイツ語などにも翻訳され世界のベストセラーとなりました。が、日本語に翻訳され『武士道』の題名で刊行されるのはずっと後のことです。外国から高い評価を受けてからその存在を自覚するという、いわば逆輸入したかたちとなります。―これは言挙げをよしとしない日本人の美徳と考えましょう―
前回紹介したように、新渡戸博士がヨーロッパの教授に「日本では宗教教育を施さずして、どうして道徳教育を授けるのですか?」と、質問されて即答できなかったのも当然のことです。その後博士はそれが「武士道」であることを見いだしますが、人は得てして無意識下で行っていることについては″なぜ?″という問いかけはできないものです。
新渡戸博士はアメリカの女性と結婚していますが、奥さんから「武士の思想もしくは風習が日本に遍く行われているのはいかなる理由であるか?」と、しばしば質問を受けたことが同書を著す直接の発端となったとのことです。
さて、武士道の「道」ですが、小欄5月号(第22回)では、中林信二氏著の『武道のすすめ』を引用し、日本人がスポーツや習い事をする態度は非常に″求道的″であると述べました。
そういえば「武士道」にかぎらず、日本人は「道」ということばを好んで使います。剣道・柔道・弓道、そしてそれらを総称する「武道」はもとより、花道・書道・茶道など数多く使われています。また野球や相撲などについても「野球道」「相撲道」と呼ぶなど、あらゆる分野に「道」をつけた言い表しかたをしています。
このように日本人は、とかくの事に「道」をつけてよぶことによって、人格の形成や生き方と大きな関わりをもって考えてきたようです。生け花や手習いを「花道」「書道」とよぶことによって、習い事を人間形成の「道」に昇華させようとしました。
「武士道」が、侍の心組みや生き方についての道徳原理とし、また己を高めるすべとしてきたのは言わずもがなのことです。新渡戸博士が見いだしたように、わが国ではこの「道」が根底にあるゆえに、ことさら宗教の信仰がなくても国民はおしなべて道徳的であり得たのです。
この「道」という観念は、日本文化独特のものであり、日本人の意識構造や宗教観にも重要な位置を占めました。そしてこの「道」が、わが大和民族の道徳を大きく支えてきたのです。
武道や芸道における「道」は、[技術上達の道]=[人間形成の道]というふうに、身体と心あるいは技と心を一つとしてとらえようとするものです。そしてその技をつくりあげる段階において極めて内省的に自分の心身をとらえ、わが身を自然の法則と一致させようとします。「稽古」あるいは「修行」という言葉は、自己を向上させようとする営みとして表現されました。武道や芸道を問わず、あらゆる「道」は、つまるところ「人間形成」という目的に集約されてしまうのです。
翻って考えてみると、宗教教育がないといわれるわが国に、「道」の観念が衰退したら国民の道徳心が地に落ちるのは当然のことではないでしょうか。そしていま、わが国はその状態に陥っております。実の親子による虐待や殺人、動機不明な凶悪犯罪は言うに及ばず、自分さえよければといった詐欺、偽造、データーの捏造・改ざん・盗用などの事案が世を賑わし、さらには「もったいない」まがいの″使い回し″など、見るに堪えないあさましい風潮が世の中を覆っています。
同書 の最終章「武士道の将来」では「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかも知れない。しかしその光明その栄光は、これらの廃址を越えて長く活くるであろう。」と述べています。
100年前、新渡戸博士はこのように予言していますが、「武士道の将来を担うのは剣道人をのぞいてほかにありません!」との檄が飛んできそうです。
(つづく)
『武士道』新渡戸稲造著、矢内原忠雄訳(岩波文庫)
*この『剣道みちしるべ』は、2007年8月〜2010年1月まで30回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。