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人間教育としての剣の道を辿る
第7回 斯道奨励 その2
国際武道大学 教授
田中 守
嘉納治五郎の講道館柔道において確立された段位制度ではあるが、その取り扱いの難しさを他ならぬ嘉納自身が強く認識していたということは前回触れたところである。たしかに、段位は斯道奨励のための工夫として制定された新制度である。だが、時に師弟の繋がりを大きく歪めてしまいかねない危険性を孕んだものでもあったのである。
「昇段」そのものにまつわる問題を象徴的に示していると思われる文章が残されている。大正7年12月号の『中央公論』に掲載された小田常胤(講道館四段)の論説「柔道改革私見」である。少々長くなるが、そのまま紹介することにする。
現在の柔道界は極端なる閥族思想の結晶であると断言するに憚からぬ。高段者は自己の子分の昇段を営業としてゐる。それもよからう。正当に実力を有し、相当に柔道に対して功労あるものを昇段せしむる事敢へて何の不可であらう。然かし事実は全く是に反対の結果を現出してゐるのは遺憾である。
高段者は実力の有無に渉らず、其有段者審査員なる肩書を利用して、只自己に近いもののみ昇段せしめ、是れによつて自己の周囲に安全なる防御の垣を築く事のみをつとめてゐる。……此等の被推薦者が後日果して推薦者の為めに犬馬の労を盡すべきかどふかは頗ぶる面白い問題である。兎に角其当時は推薦者の為め其位置の安全を保有せしむる光栄ある道具となつて甘んじてゐるのは事実である。
ここでは、段位が正当な枠を超えて、「利権」として動き始めたことの問題点が鋭く指摘されている。もちろん、これが柔道に限っての問題だといえるはずはない。また、こういった資格や免許を取り巻く問題は、何もこの時代に始まったことではない。
例えば、19世紀に入ってからの著述とされる『免兵法之記』の中には、「師之心得之事」として、免許の不正授受を強く戒める記述がある。
勿論、門弟の親疎によらず、たとひ親子兄弟たり共、毛頭依怙贔屓なく、義を専らとし、門弟中の賢愚を撰ず一統に順和せしめ、己れより勝る弟子をも取立を師の誉とし、流儀の賢盛を可心掛事。偖又専嗜むべき事は、藁苞にて国傾と申たとへのごとく、金銀衣食に迷ふ未練至極の賊心をのぞかざれば、終には大切なる事も賣物同然に取扱様に成行事多々有之儀、不及是非次第候。依之、師の心底不正れば、流儀を穢事目下候。……
江戸中後期の剣術衰退期に、「金許」「義理許」といったことが横行したのは事実のようである。泰平の世にあって武芸武術が本来の実用的な意味を成さず、「何のための剣術修行か」「何のための免許制度か」が曖昧になっていったためであろう。
さて、あらためて現代武道の段位は何のためにあるのかを考えてみると、その答えは、先の小田論説に応えて『中央公論』(大正8年3月号)に櫻庭 武が寄せた文章の一節に尽きている。
元来階級は、柔道の目的それ自身でない。之によつて修業者を奨励し、修業の程度を明らかにし、以つて進むべき方向を指示するものである。
これは、誰もが承知しているはずの当たり前のことである。この一文の通り、段位も称号も、すべて人間の向上、斯道奨励、普及のためである。人を選別し、序列を付けるためのものではない。そう考えると、問題とすべきは、段位や称号の制度そのものではなく、やはりそれを受け止める人間の考え方、心の持ち方、姿勢、態度なのであろう。
段位・称号に対してのこだわりが特に強い剣道界であればこそ、「何のための段位・称号か」「何のための修行か」「何のための剣道か」をもう一度原点に立ち返り、問い返す必要があるように思う。
高段位や範士の称号そのものが偉大なのではない。そこに至る、その人の修行の積み重ねや克己研鑽の過程こそが大切なのである。段位や称号ではなく、修行の結果として、その人の内面から滲み出る人徳、技量、品格こそが尊いのである。
(つづく)
*この人間教育としての剣の道を辿るは、2006年10月〜2007年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。