図 書
人間教育としての剣の道を辿る
最終回 師弟同行 その2
国際武道大学 教授
田中 守
「指示待ち人間」「指示待ち症候群」――依存心が強く、何事も自己の判断や責任では行動できない、という最近の若者の様子を捉えた表現だ。
だが、一概にこれを彼らの甘えや人としての未成熟さだ、と切り捨てることはできない。家庭や学校をはじめ、大人が手をかけ過ぎること、そして社会がそれを許してしまっていることを忘れてはならないだろう。
さて、この「指示待ち」の傾向は、剣道の場においても例外ではない。あてがわれた内容をただこなす、という稽古姿勢だけでなく、試合の最中にも選手が繰り返し監督席に視線をやり指示を仰ぐ、という光景をしばしば目にする。
たしかに競技成績の向上を図るため、指導者としてはかつて話題となった「管理野球」のごとく、指示通りに動く選手をつくり上げることが近道なのかもしれない。だが、このような稽古や試合さらには師弟関係を通して、若者達にどれ程の人間的な成長が望めるのか、甚だ疑問に思うところだ。
古来、剣の道は「真似び」、そして「自得」すべきものだとされてきた。
「真似ぶ」は「学ぶ」の語源だといわれるが、あらゆる芸の伝承と同じく剣の道も「形」を中核とする「真似び」の世界として受け継がれてきた。弟子は師の示す「形」をひたすら忠実に模倣再現することに努める。そして、そこに内包される様々な意味を汲み取り、それを自己の形に投影することが求められたのである。
「真似び」の原点は、師を全人格的に受け容れることにある。弟子は技だけではなく、師の求道者としての生き様を「真似び」とるのであり、そこに「人間形成の道」の土台が築き上げられるのである。
しかし、「真似び」はあくまでも「自得」への入り口に過ぎないものである。
本連載で、度々引用した佚斎樗山の『猫之妙術』には、この辺りのことが極めて的確に整理されている。同書は剣術修行の階梯を示すものであり、「所作」「気勢」「和」「無我無心」等々が順を追って語られているが、最終的に説かれるのは以下の通りである。
師は其事を傳へ、其理を暁すのみ。其真を得ることは、我にあり。是を自得と云。以心傳心ともいふべし。教外別傳ともいふべし。教をそむくといふにはあらず。師も傳こと能はざるをいふなり。只禅学のみにあらず。聖人の心法より、藝術の末に至るまで、自得の所はみな以心傳心なり。教外別傳也。
現代における剣道の指導が、「真似び」や「自得」「以心伝心」「教外別伝」だけで成立する環境にないことは事実であろう。また、剣道に取り組むすべての人に、求道的姿勢を望むべきでもないだろう。
だが、剣道をあくまでも「人間教育」として捉えるなら、先ほどの文に続く
教といふは、そのをのれに有て、みづから見ること能はざる所を、指して知らしむるのみ。師より是を授るにはあらず。教ることもやすく、教を聞こともやすし。只をのれにある物を、慥に見付て、我がものにすること難し。これを見性といふ。悟とは、妄想の夢の悟たるなり。覚といふもおなじ。かわりたる事にはあらず。
という一節を肝に銘じておきたいものだ。
我々剣道指導者に求められるのは、勝たせることや技を教えることばかりではない。それよりも先ず、後学の徒にとって「師表」そして「正師」として「真似ぶ」にたりるよう己を磨くことである。樗山の説くように、安易に教え教わるのではなく、師弟同行の中で「自得」へと導くことこそが「剣の道」であり「人の道」なのだろう。
よく耳にすることではあるが、昔の先生方は「細かなことは何も教えなかった」「今のように、手取り足取りの指導などは一切なかった」といわれる。そこに、決して易きに流れず、師弟同行の何たるかを貫く心意気が読み取れるのではないか。
21世紀の今、「人間教育としての剣の道」がいかにあるべきか。その答えは、歴史の中にあるように思う。
「人に古今はあれども、道に古今はなし」
(おわり)
*この人間教育としての剣の道を辿るは、2006年10月〜2007年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。