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剣術歴史読み物
第2回 「撃剣」の時代
南山大学 名誉教授
榎本 鐘司
寛政2年(1790)に著された、「撃剣叢談」という武道史料がある。大正14年に刊行された『武術叢書』に収録され、剣道史の一般書から研究書まで広く引用されることの多い史料である。『武術叢書』には「天保14年に備前岡山藩士源徳修が著した」と紹介されたが、寛政2年に三上左大夫元龍が著したとするのが定説となってきた。
長尾進氏が詳しく研究されたが、18世紀後半に岡山と江戸とを往来した岡山藩の三上元龍が、当時に見聞きした剣術流派について書き留めたものが本史料である。これに記載された流派数は114流派に及ぶ。剣術流派全般について書き留めたにも関わらず、題名に「撃剣」と冠したところに、本書の時代性がみてとれる。三上元龍には、18世紀後半の状況が、「剣術」の時代というよりは、「撃剣」の時代と映ったのである。
「撃剣叢談」は五卷で構成されている。「卷之一」は影流に始まり新陰流系統の流派を取り上げている。「卷之二」は、神道流に始まり鹿島・香取系統の流派、「卷之三」は中条流に始まり一刀流系統の流派、「卷之四」は武蔵流(円明流)に始まる特徴的な有名流派、「卷之五」は当時としてはかなりローカルな流派と言うように、それぞれ意図的に分類を試みている。しかし、その分類が成功しているとは云えないところもあり、いずれの巻も竜頭蛇尾のきらいがある。また、例えば「一伝流は(中略)此の流態数甚だ多しと云ふ。小太刀、鎖鎌等様々附けたる者あり。」とか、「新心流には、居合、太刀、柔の三つにもとづきて、捕手の伝、用い方心得の条々、軍中の伝等に至るまで、数々相伝する事有る也。」とあるように、足軽以下の身分の者に広く伝承した、柔・居合を含んだ総合武術流派についても言及されている。
しかし、このことによって「撃剣叢談」の史料的価値が下がるのではない。その逆である。つまりここで注目すべきは、三上元龍は剣術流派について分類を試みたのであるが、彼が見聞きした流派はあまりにも雑多であって、分類不能の流派が多いこと、また剣術というカテゴリーで分類することさえできない総合的武術流派も多いという実態である。
江戸時代、武術流派はそれぞれ剣術・槍術・柔術等々と分化し、深化したとするのが一般的な見方である。しかし、それは中央中心的な流派に限ったことであって、地域や身分に関わりなく広く流派の知見を求めようとすれば、まさに「撃剣叢談」に示されている所が、当時の全国的な状況であった。
「卷之二」に、神道無念流について次のようにある。
「神道無念流を唱えて、当時江戸第一と称せらる戸ヶ崎熊太郎は元武州清久の産なり。(中略)此の流、勝負を以て仕立てる教也。尤も勝負あとをつむる也。しなひも重き篠しなひを用う。両小手已下の道具皆丈夫に製す。皮也。」
当時、江戸で剣術の最先端を行くのは神道無念流であった。堅固なしないと防具を使い、しないを激しく打ち合わせて試合の稽古を行う神道無念流に対して、旧来の形稽古を主とした剣術流派が旧習からの逸脱を指摘して如何に冷ややかに見ようとも、それはすでに「江戸第一」の流派に成長していた。そして三上元龍には、神道無念流の「勝負」本位の稽古形態は、すでに全国のいわゆる雑多な流派が志向する所でもあると映った。三上が「剣術」ではなく「撃剣」としたのは、旧来の剣術流派よりも、神道無念流のような試合稽古を志向する流派がすでに全国的に圧倒的に多く成っており、そこに「剣術」とは異質のものを見ていたからである。
厳密に概念規定することは難しいが、「剣術」には、戦技として洗練された技法としての意味が強く感じられる。「撃剣」には、古代的な用法としての意味を感じる。すなわち、戦技としてのみならず辟邪(魔よけ)としての呪術的な意味を持って舞い、演じるという形態の剣技の存在である。「撃剣」という場合には、剣や木刀、しない等を用いて激しく打ち合う形態のものをさして、その行為が如何なる目的を持って行われているかは問題にしないという解釈も成り立ちうるのである。
(つづく)
*この剣術歴史読み物は、2002年5月〜2003年7月まで3名の筆者によりリレー形式で15回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。