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剣術歴史読み物
第6回 近代剣道の幕開け――千葉周作剣術論の公開
天理大学 名誉教授
湯浅 晃
榎本鐘司先生からバトンを受け継ぎ、話を江戸時代から明治時代へと進めたいと思う。明治時代は、「撃剣」から「剣道」への転換期であった。竹刀打ち込み稽古(「撃剣」)の技術体系や指導方法については、すでに幕末期に窪田清音(田宮流)・加藤田平八郎(加藤田神陰流)・千葉周作(北辰一刀流)らによって工夫が重ねられていたことが明らかになっているが、なかでも千葉周作の剣術論は近代剣道の基盤形成のうえに大きな役割を果たした。
明治時代には、活版印刷が普及し多くの剣道書が刊行されたが、管見するところ、活版剣道書刊行の嚆矢は神道無念流の根岸信五郎著『撃剣指南』(明治17年)であるが、同年に北辰一刀流関係者によって『剣術独案内』(森 景鎮)、『千葉周作先生直伝 剣術名人法』(高坂昌孝―以下『剣術名人法』)、『剣法秘訣』(広瀬眞平)の三書が相次いで刊行されている。いうなれば、近代剣道の幕開けは、出版事業の面からみれば、千葉周作剣術論の公開からなされたという感が強い。
今回は、このうち『剣術名人法』(『史料明治武道史』、『近代剣道名著大系』第二巻に収載)について紹介したい。本書刊行の明治17年といえば、華族会館附属「養勇館」、「済寧館」が創立された翌年であり、「剣槍柔術永続社」が設立された年でもある。これら三つの道場・組織は、いずれも山岡鉄舟をはじめ宮中関係者や政府高官らによって設立されたものである。明治15年以降、宮中儀礼の保存が活発化したが、西洋文明の導入とともに、日本の伝統を保存し、「国民国家」としての文化的アイデンティティを確立するための方途の一つとしても、剣術の復興が図られたといえよう。
警察剣術の奨励や伝統保存の風潮のなか、剣道書刊行初年の『剣術名人法』表紙に、題字・山岡鉄舟、序文・鷲尾隆聚(「剣槍柔術永続社」社長、元老院議官)、校閲・籠手田安定(撃剣知事として知られる)を掲げお墨付きを与えているが、このことは剣術の復興という政策的意図があったかどうかはわからないが、読者へのアピールが大きかったことは確かであろう。
さて、小林義雄氏らの研究によると、著者の高坂昌孝は、幕末弘化年間より千葉周作の門下にあり、嘉永年間に本書の草稿と思われる論考を著し、千葉周作の校閲を受けたという。千葉の剣術論を紹介したものとしては、『千葉周作遺稿』(昭和17年、のちに体育とスポーツ出版社より復刻)が有名であるが、同書の中核をなす千葉の剣術論については『剣術名人法』とほぼ同内容であり、戦中・戦後剣道家のバイブル的存在であった『千葉周作遺稿』の原本は、実はこの『剣術名人法』であったといってよい。
千葉周作が近代剣道の確立に果たした役割のうち、最も大きなものの一つは技術の体系化であろう。その技術体系を公開し、「剣術六八手」として広く世に知らしめたのが本書である。詳細は省略するが、撃剣の技を「面業二十手」・「突業十八手」・「籠手業十二手」・「胴業七手」・「続業十一手」と、打突部位別に合計68に分類整理した。この「剣術六八手」の体系は、技の厳選が進み次第に技数は減少していくものの、高野佐三郎(『剣道』大正4年)の「手法五十手」へと引き継がれ、現代剣道で使用される技も、そのほとんどがこれに含まれている。
つぎに、『剣術名人法』では千葉が工夫考案した、「打込」(現在の「切り返し」と「打ち込み」を組み合わせたもの)などの稽古方法や、撃剣の術理についても紹介している。現在よく「切り返し」の効用として挙げられる項目も、本書においては、打ち込む側の効用として「打込十徳」(「業烈シク早クナル事」、「打チ強クナル事」、「息合ヒ長クナル事」など十項目)、また元太刀側の効用として「打込台八徳」(「心静ニ納マル事」、「眼明ラカニ成ル事」、「敵ノ太刀筋明ラカニ成ル事」など八項目)が紹介されている。
このように、千葉周作の剣術論は本稿で紹介した『剣術名人法』によって、近世から近代へと受け継がれた。そして、現代剣道の技術論・稽古法にも生き続けている。
(つづく)
*この剣術歴史読み物は、2002年5月〜2003年7月まで3名の筆者によりリレー形式で15回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。