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剣術歴史読み物
第7回 剣術受容者の拡大と組織化――武術英名録の出版
天理大学 名誉教授
湯浅 晃
前回紹介した『剣術名人法』をはじめ、明治17年以降始まった剣術書の刊行は、千葉周作などの近世的剣術論のリバイバルであった。明治15年頃から宮中を中心に強まった伝統保存の波は、明治20年を境に言論界を通じて全国的に拡がった。いわゆる「国粋主義」(次回詳述)の台頭である。この国粋保存の風潮は、警察や宮廷における武術の振興、自由民権結社における平民層の武術受容の拡大など、すでに進行しつつあった武術の復興に拍車をかけた。
明治21年(1888)4月、新井朝定はその前年に編集した『皇国八州武術姓名記』を大幅に増補・改訂し、『皇国武術英名録』(全五冊・木板本)を出版し、関東地域(主に旧「関八州」)の武術家の姓名や略歴などを掲載した「英名録」(武術家名鑑)を公開した。本書の編集は、「明治ノ英名録ヲ作リ、以復斯武ヲ奨励セント欲ス」とあり、武術の復興・奨励を意図したものであった。編者の新井は、本書編集の約30年前の幕末万延元年(1860)にも、攘夷志士・真田範之助(北辰一刀流)とともに『武術英名録』(剣術家のみ633名収録)を編集している。両書とも、武術の修業先を探すための手引き書であるという点では目的を同じくしている。しかし、後者の幕末・万延版英名録は、幕末期尊王攘夷同志の勧誘も目論んで編集されたふしがある。これに対して前者は、明治版英名録ともいうべきものであり、近代国民国家の形成期、日本の伝統的武術を復興し文化的アイデンティティの確立を企図して編集されたものであるともいえよう。
『皇国武術英名録』は万延版『英名録』と違って、剣術だけではなく他の武術家も合わせて2,781名を収録しており、幕末期には衰退していた柔・槍・弓術も復興の兆しがあったことを示唆している。しかし、他の武術に比べて剣術家の掲載数は格段に多く2,353名を数え、万延版の4倍弱に及んでいる。
また、詳細な人数は省略せざるを得ないが、この二つの英名録記載の流派別収録人数を比較すると、およそ以下のことがいえる。
- 神道無念流と柳剛流は、幕末期以来明治前期にかけて大きな勢力を有していた(柳剛流は、その特徴である「臑打ち」が近代剣道において評価されなかったせいか、以後急速に衰退する)。
- 天保期におこった天自流の発展が顕著である。
- 念流、荒木流、甲源一刀流、真之真石川流などのローカル色の強い流派が勢力を保っていた (ローカルであるがゆえに、文明開化の影響をさほど受けなかったことがその要因か) 。
(渡辺一郎『幕末関東剣術英名録の研究』参照)
ここで注目すべきは、幕末期には武蔵・相模において顕著な在郷的発展を遂げていた天然理心流が、宗家近藤勇(新撰組隊長)の処刑の後、賊軍の汚名を蒙った関係で、万延版の64名から『皇国武術英名録』の5名へと激減していることである。これに関係して、明治16年(1883)、当時の神奈川県南多摩郡野津田村の民権家村野常右衛門は、自身の所有地に「凌霜館」という道場を設け民権壮士の育成を図ったが、この凌霜館の門人とみられる38名の者が『皇国武術英名録』に掲載されている(小島政孝「凌霜館の剣術について」民権ブックス10号=町田市立自由民権資料館=には35名とある)。幕末期多摩地方は近藤勇や土方歳三らも出張指導のために往来しており、天然理心流の地盤であったが、凌霜館には神道無念流の八幡十郎、三浦正行が招かれており、神道無念流への流派替えの様子がわかる。
最後に、『皇国武術英名録』第五巻末には、全国の書店で販売中との広告があり、出版すれば売れるという武術受容者の裾野がすでに拡がっていたことを示唆している。また、編者の新井朝定が、明治27年、関重郎治(長野・愛国同盟義勇会)や大塚奓恵八(埼玉・左右社)らとともに『現行体操課目中剣道編入請願書』を文部大臣に提出して、剣術の正課編入運動を展開するように、本英名録が拡大しつつあった剣術受容者のネットワークの形成に果たした役割は大きかったといえよう。
(つづく)
*この剣術歴史読み物は、2002年5月〜2003年7月まで3名の筆者によりリレー形式で15回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。