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剣術歴史読み物
第10回 山岡鉄舟の剣術論――近代「剣道」の発明・創出
天理大学 名誉教授
湯浅 晃
嘉納治五郎が明治前期、旧来の柔術を「近代化」することによって「柔道」という新たな伝統文化を創出し、近代社会にふさわしい身体文化として定着させたことについては前々回に述べたが、筆者は、近代「剣道」の創出は柔道と違う仕方でなされたように思う。
それでは、近代において剣道が社会的認知を得るためには、いったい何が必要だったのであろうか。筆者はその第一は、剣術がもっている「暴力性」の排除であったと考える。剣術は柔術に比べて極めて強い暴力性を原初的にもっており、この「暴力性」を排除しない限り、近代国家において文化として社会の承認を得ることはできなかった。
幕末維新期において剣術はまさしく暴力であったといえる。官軍は武力(暴力)的脅威をもって倒幕に成功し、新時代を切り開いた。明治に入っても不平士族の反乱が絶えず、政府は廃刀令を布告し帯刀できるのは軍人と警察官のみに制限し、〈暴力〉の独占化を図った。
明治期、通常剣術といえば撃剣(しない剣術)のことであり、真剣でのやりとりに比べて暴力性は極めて希薄であったと考えられるが、自由民権結社では反政府的な「志気」や「気概」の養成を目的に撃剣訓練がなされており、単なる撃剣も政府の側からみれば明らかに国家に対する暴力的反抗手段とみなされたのではないか。政府は、剣術指導者の警察側への取り込みや警察官の剣術訓練の強化で対抗し、民権運動の弱体化を図ったが、加波山事件や秩父事件などの武装蜂起にみられるように、やはり剣術の暴力性は拭えなかった。
剣術の近代化において大きな役割を果たした人物として山岡鉄舟が挙げられるが、彼は剣術の暴力性を排除した理念の確立をめざしたものと考えられる。山岡は勝 海舟や西郷隆盛らとともに江戸城を無血開城に導いた功労者であり、維新後は明治天皇の侍従として仕え、当時の武術界において発言力を強くもっていた。彼は最初北辰一刀流を学んだが、自己の鍛練と参禅の体験から「一刀は万刀に化し、万刀は一刀に帰す」という一刀流の理念をさらに深め、「心外無刀」を唱え、明治13年「無刀流」の開祖となり、明治15年には「春風館」道場を開いた。無刀流の理念は、「夫レ無刀流ノ剣術ハ、人我剣撃ノ勝負ヲ争ハズ、只々錬心、鍛術、自然ノ勝ヲ取ルヲ要スル耳ミ。(中略)撃剣ノ方術ハ、事理ノ二ツヲ錬磨スルニ在リ。事ハ技ナリ。理ハ心ナリ。」(渡辺一郎編『史料明治武道史』新人物往来社 所収)というように、近世的な心法論、とりわけ佚斎樗山(『猫之妙術』・『天狗芸術論』の著者)の思想の影響を強く受けており、技を鍛え、気を錬り、心を治めるという、自己の内面へと向かう〈鎮静的心法〉ともいうべき心法論への回帰を示している。
この鎮静的心法は、実戦剣術から形剣術、いいかえれば実戦的「武術」から文化としての「武芸」への転換期において、柳生宗矩によって「殺人刀」から「活人剣」への昇華というかたちで提言され、針谷夕雲や佚斎樗山らによって確立されたたものであるといえる。山岡は、近世の「形」を中心とした「武芸」の時代に培われた鎮静的心法を、「撃剣」修業の体系のなかに組み込み、鍛練的・修養的価値づけをしようとしたものと解することができる。そして、剣術に原初的に付随する暴力性を排除し、近代社会に容認され得る剣術理念の確立を目指したといえよう。
このような山岡の回帰的ともいえる剣術理念は、嘉納治五郎による「柔道」の創出とは逆方向である。しかし、剣術においては、幕末期における「しない剣術」(試合剣術)の普及によって、技術や指導の体系化・等級制度の整備(簡略化)など、嘉納が意図した近代化の方向は、近代の到来に先駆けて、すでにある程度達成されていたといえるし、撃剣興行によって試合ルール上の工夫もなされていた。山岡にとっては、撃剣興行のような曲技的・遊芸的性格と、壮士の養成にみられるような暴力性を排除し、自己修養的な「道」的価値の再創出こそが、近代社会にふさわしい剣術のあり方に見えたのではないだろうか。
私たちが古くから受け継いでいると思っている「伝統」は、じつはその多くが近代国民国家の形成期、国家のアイデンティティー確立のために「発明」されたものだという(ホブズボウム、レンジャー『創られた伝統』紀伊國屋書店)。「剣道の発明」ともいうべき山岡の剣術理念は、柔道のような、いわゆる「近代化」とは違った、もう一つの「伝統の発明」のあり方を示しているといえよう。そして、山岡鉄舟によって発明・創出された近代「剣道」の伝統は、全日本剣道連盟制定の「剣道の理念」にいまも受け継がれている。
(おわり)
*この剣術歴史読み物は、2002年5月〜2003年7月まで3名の筆者によりリレー形式で15回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。