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剣術(道)歴史読み物
第11回 修養論の系譜1 西久保弘道『武道講話』
大阪大学 元教授
杉江 正敏
私は、過日の文化講演会(平成15年1月18日)で「剣道の理念形成と無刀流」というテーマで、お話させて頂きました。また、前回このシリーズの最後で、湯浅 晃氏(天理大学)は、「伝統の創造」や「暴力の排除」という観点から、無刀流に対する新たな見解を示されました。
西久保弘道は、この無刀流の思想を明治後半期から昭和初期にかけて、内務官僚として、各道府県の警察部長や長官として、また大日本武徳会副会長という立場において宣揚した人物として著名です。今回は修養論の系譜をたどる手始めに、この西久保を取り上げ、その人となりと各地で行った「講演録」を紹介します。
1、西久保弘道について
略歴を『西久保弘道の一生』(牛山栄治著 春風館 昭和44年)を参考にして調べてみます。著者には、先に『山岡鉄舟の一生』という著述があり、西久保を山岡の後継者と見做していることが分かります。
西久保弘道は、文久3年4月、佐賀県鍋島村で下級士族の長男として生まれました。明治12年、司法省法学校に入学、幾多の苦難を乗り越え、28年に東京帝国大学法学部を卒業した時には、33歳になっていました。30年、文官高等試験に合格して、愛知県の参事官に就任しました。それから、石川、山梨、静岡、茨城、滋賀、愛媛県等の内務部長や警察部長を歴任し、明治43年、福島県知事となり、大正3年、北海道庁長官に抜擢され、翌4年さらに警視総監に栄進します。大正5年本官を免ぜられて貴族院議員に勅選されます。大正15年4月には東京市長に推され、昭和2年12月に退任しています。
牛山は、西久保のことを「角力にしてもよいほどの巨躯で、105㎏もあった。生涯山岡鉄舟の無刀流の剣道にはげみ、大日本武徳会副会長として、或は武道専門学校長として(副会長、校長兼任、大正8年~15年)、日本武道指導上の欠陥を補足矯正し、大いに斯道に貢献している。昭和5年7月8日早暁、68才で生涯を終っている。」と評しておられます(西久保の履歴については、中村民雄氏の『剣道事典』に詳しい)。なお、この西久保の主宰した弘道館道場(千葉県市川市)の朝稽古会には、養嗣子良行氏との関係から法曹界の人々が多く集い、全日本剣道連盟会長であった故石田和外先生もそのうちの一人です。
2、『武道講話』
筑波大学の有田祐二氏は、西久保の剣道観に関する研究を、日本武道学会34回大会(平成13年)において発表されています。この発表で有田氏は、西久保の講演録として遺されている最も古いものとして、警視庁警察練習所における講演筆記録(『警察協会雑誌』大正3年〜4年)を挙げ、この他に、北海道庁長官時代の講演録を北海道庁内務部が編纂した『武道講話』(大正5年 渡辺一郎編『近代武道史研究史料集』所収)、および、警視総監時代の武道講話を岡本学が筆記編纂した『西久保氏武道訓』(大正5年)があるが、その内容は同種の草稿によるものと判断しておられます。
西久保がこれらの講演において強調していることは、武道の目的と名称に関する事柄です。
目的については、「1、殺人説」を挙げ、軍人に必要という説もあろうが、鉄砲の発達したこの時代においては「不必要という論結(論決カ)になる」と述べ、「2、護身説」については、その必要は認めるものの、国民一般に奨励する真の目的とはならないとして、「3、心身錬磨説」こそが、「武道本来の目的」であると結論づけています。
最後には「時代の要求」と題し、「今日の時代の要求は、才子でも学者でもない。…今日の学識と才智のある人に、体力と胆力とを結び付けることが焦眉の急である。この欠陥を補ふには、如何にせばよいか。つまりは武道の錬磨に依るより外にない。それ故に私が狂人の如くになっての錬磨を熱望する所以である」と述べ、鍛練的修養の必要性を強調しています。
武道の名称については、校長時代に「武術専門学校」を「武道専門学校」と改称したことで、よく知られておりますが、「撃剣」「剣術」と呼ばれた時代に「剣道」と呼称することを所々で講演し、この名称を一般に普及させた第一の功労者として西久保を推すことに異論はないと思います。また、昇段審査に筆記試験の導入を試み制度化した功績も見逃せません。
(つづく)
*この剣術歴史読み物は、2002年5月〜2003年7月まで3名の筆者によりリレー形式で15回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。
*西久保は元々山岡鉄舟への敬慕の念をもっていたが、直接師事した形跡は見当たらない。
ただし、山梨県内務部長時代に山梨県警に赴任していた鉄舟の高弟である香川善治郎との交流があり、香川を通じて鉄舟への崇敬をさらに強めたと推定されている(内田建也氏の研究などに拠る)。
*有田氏のその後の研究によれば、確認される西久保講演録の最も古いものとしては、福島県師範学校での講演録(明治45年)がある。