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幕末在村剣術と現代剣道
第1回 不二心流・中村一心斎の巻
全剣連 広報・資料小委員会 委員
工学院大学 教授
数馬 広二
現代剣道のもとをつくったのは、その思想からしても、武士階級の間で修練されてきた剣術流派と考えられております。ところが近年、江戸時代の人口の約80%を占めた農民階層が、村うちで撃剣(竹刀打ち剣道)を行っていた事実が明らかになっております。その在村剣術もまた現代剣道の形成に大きな影響を残したのではないでしょうか。
今回は、山田次郎吉が「日本一」と称賛し、山岡鉄舟も尊敬したといわれる剣術家、不二心流開祖・中村一心斎を取り上げたいと思います。
中村一心斎は、『大菩薩峠』(中里介山著)で「青眼音無の構え」・机龍之助が宇津木文之丞と行った試合の行司役として描かれております。また「稀代の異人」ともいわれ「歳七十余りに及んで、常陸国水戸藩へ試合申し入れ、若き者を相手に致し、悉く勝利を得たり。」(『千葉周作直伝剣術名人法』)と記されております。
70余歳という年齢で若い人を手玉にとる先生は現代ではよくみられることですが、その先達であるところの一心斎は、どのような修行をし、勝負観を持っていたのでしょうか。
一心斎は、天明2年(1782)島原藩士中村八郎左衛門の次男として島原城内で生まれ、8歳より浅山一伝流を学びました。17歳で江戸詰の島原藩士花村小三郎家へ婿養子にはいり、多くの道場がひしめく江戸でも浅山一伝流を学びますが、22歳の頃、転機が訪れます。理由は不明ですが、自ら乱心者を装い、進んで浪人の身となってしまいます。
その後、60余州を廻国修行し、牛に引かれて…でしょうか、信濃国の善光寺付近で、河原正真流の道場に入門し稽古しておりました。その頃の名前を中村八平と名乗り「中段」で勝負していたことがわかっています(榎本鐘司編『撃剣試合覚帳』)。
江戸へ戻った頃には、当時評判となっていた神道無念流・鈴木斧八郎道場の「塾頭」として迎えられる程の実力を蓄えておりました。
文政元年36歳のとき、八平は、霊峰・富士山で「塩穀を絶ち、百草を食べ、百ケ日の大行を重ね」、「我が心に二心無し」と悟りを得て不二心流と名付けました。そして自ら「不二剣翁」と称し、江戸八丁堀に道場を開き2000人の門人があったとされます。
一心斎の風貌は「髪は惣髪にして、ヒフという衣を着し、長剣を横たえ、髭おとがいより胸の下に至りて腹を覆う。左右耳の垂れたる元に穴を穿て象牙の輪を通し、是より袋を垂れ、髭をおさめ、甚だこの嗜み、其の姿殆ど山伏に似たり。」(島原市立図書館蔵『深溝松平家藩中藝園録』)と、特異な風貌であったようです。また、一心斎の墓石には「身長六尺二寸(約188㎝)、美髭三尺三寸(約1m)」と彫られていますので、巨漢に長い髭がとても目立ったのでしょう。
その一心斎は、富士山信仰の一つ「不二道」創始者・小谷三志と交わっていたようです。一心斎は、不二道の行者として「藤 開行」という名を持ち、「貨殖開伝・農家耕作教導師」と自称し、房総(今の千葉県)へ赴きます。江戸道場を門人に任せ、上総国木更津の紺屋・大河内縫三郎や外房九十九里の網元・海保沙村、匝瑳郡宮川村の熊野神社宮司・藤城義高などの有力門人が構えた村々の道場を巡回指導しました。そこで一心斎は、幕末の飢饉や社会不安のなかで失望状態にあった農民に耕作法の実践指導をするとともに、剣の修行の中で学んだ内観法を指導し、地域に「元気」を呼び戻そうとしたのです。(『不二心流秘伝浩然養気治国安民之巻』)
一心斎が自ら内観法を学び、門人にも指導していたことは『剣法撃刺論』(森 景鎮著)に、次のように記されております。
「中村一心斎は朝暮、内観の法を修す。予是に従い学び得たり。(中略)是皆練心養丹の法也。」
ここで朝夕の2回行ったという「内観の法」は、禅僧白隠が『夜船閑話』で紹介しているものです。その内容は「一息より数えて十に至り、十より数えて百に至り、百より数えて千に至る」とする呼吸法です。「数息観」とも呼ばれるものですが、その効果は、撃剣(竹刀打ち剣道)の場面では「気息満ち亘る時は(中略)勇気日頃に百倍」、真剣の試合であっても「平常心」を保つものとしております。さらには「長寿せしむるの法」つまり、長生きのための健康法で、元気や活力が漲ってくるものでした。
一心斎は「五分先生」とか「相打ちの先生」と語り継がれ、さらに不二心流形には「とどめの太刀」がありません。幕末以降、いよいよ試合重視に向かう撃剣の流れに対し、勝負に拘らないという一心斎の姿勢は、一つの見識であったとも思えます。
文化の中央、江戸から離れ、一農村社会を剣術によって活性化することに生涯を捧げた撃剣家・中村一心斎は、安政元年(1854)、下総国埴生郡赤荻村・鵜沢覚右衛門宅で門人に囲まれながら、当時としては長寿の73歳で生涯を閉じました。
一心斎の教えを受けた門人が房総各地にひろがり、不二心流は現在も続いております。
(つづく)
*この幕末在村剣術と現代剣道は、2006年4月〜2006年9月まで6回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。