図 書
幕末在村剣術と現代剣道
第2回 甲源一刀流・比留間半蔵の巻
全剣連 広報・資料小委員会 委員
工学院大学 教授
数馬 広二
今回は幕末期武蔵国の農民・比留間半蔵(利充・1804~1887)が江戸幕府御家人(将軍家直属の家臣)である「八王子千人同心」へ甲源一刀流を指導していた例を紹介します。
甲源一刀流は、武蔵国秩父郡小沢口(埼玉県秩父郡小鹿野町両神簿)で逸見太四郎義年が創始した流派です。
比留間半蔵は武蔵国高麗郡梅原村(現埼玉県日高市梅原)の名主で、義年の傑出した門人であった父與八から自宅道場で甲源一刀流を教わり、14歳の時義年に入門。修行を続けること9年、23歳の若さで「皆伝師範」を許されました。その半蔵は、孫・比留間一郎氏(以下一郎氏)によれば「武者修行先の近江国日野や紀伊国熊野で請われるままに行った指導が人気を博し、半蔵のために道場が建てられるほどの厚遇を受け」たり、また「柳川藩士大石 進が5尺の長竹刀を操り、江戸で旋風を巻き起こしているとの噂を聞き、これに対抗するため5尺を越える木刀を作り挑もうとした」人でした。
そういった評判を聞きつけ、八王子千人同心から「剣術師匠」として招きがあったのです。これに応じた半蔵は、また、40歳(1845)の時、「八王子千人同心株」を「四五両」(約300万円)で購入し、平同心の一員となります。
「八王子千人同心」とは、武田家の遺臣が、江戸幕府・鑓奉行に属し、甲州口である八王子を警護する御家人1,000名の組織(同心100名をもって一組とし10組。「千人頭」-「組頭」-「平同心」)でした。低い切米(平同心は十三俵一人扶持=年収約50万円)ながら、日光東照宮「火の番」や「蝦夷地警備」等の重労働もこなし、その気質は『桑都日記』(塩野適斎著)に「我が党の郷士(われわれ千人同心は)、東都(江戸)を去ること十有余里(約40㎞)、其の居多く山野に拠る(八王子周辺の農村で生活している)。膂力剛毅(筋力強く)、自ら武事に工(武術に優れている)なり。人物に至りては国藩の士に伯仲する(優劣をつけられない)者か」という、武骨な気質であったと思われます。
同心・半蔵は、はじめ「厄介(食客)」として多摩郡下村(現東京都青梅市下)百姓・為右衛門宅から甲源一刀流の指導に出向いておりましたが、指導ぶりが認められ、江戸城内「植溜」において甲源一刀流の組太刀を将軍(12代徳川家慶)に披露するという栄誉に浴します。更に千人頭から八王子千人町に「間口六間半・奥行三十五間」の住居地が与えられ指導拠点がいよいよ八王子に移りました。
八王子での稽古ぶりは、駒木野関所(東京都八王子市)の関守・佐藤源三郎(1844~1890)の『日記』にみることができます。源三郎入門の日(万延2年8月11日)、半蔵は息子・大吉を連れ、源三郎家の道場へ出向きました。(「剣術師匠比留間半蔵、同忰大吉来る。初めて対面し…門人に相成る。次に比留間大吉と一本ツコウ。次ニカタヲ致す」。)
また1月16日に稽古が始まり、12月12日が稽古納めでしたが、1年間の稽古を成し遂げた喜びを分かち合う様子は、師弟間の絆とか心の豊かさを感じます。(「四(午前10時)前頃に…稽古致す。九(午後1時)過頃に若先生(比留間大吉)来る。稽古致す。同夜剣術稽古納め…。酒盛り始まる。盃中程頃に成ると先生踊り出す。…四半(午後11時)頃に終る」(万延二・十二・十二日記)
そして56歳の時、念願の「比留間堂場」が千人頭・下荻原邸の前(現八王子市追分町)に落成したのです。この道場は「六、七十人が稽古」できる広さで、千人頭家、組頭家、同心家という家格の区別なく稽古が行われました。門人は、自ら「シナイ」や「タレ」を「拵へ」たり、胴や小手を「繕」ったりしながら稽古に臨みました。稽古は「今の剣道のように激しく動き回るようなことはなく、一撃必殺の太刀さばきであった」(一郎氏談)といわれますが、半蔵は、「真夜中に梅原村を出発し25㎞離れた八王子まで歩き、早朝に着くと指導をして再び引き返し、周りの農家に負けない気位で農作業を行い、夜は自宅道場で指導した」(一郎氏談)ようです。
のちに「門人四千人」とも刻されるほど広い地域で指導した八王子千人同心の半蔵でしたが、あくまでも天領・梅原村(江戸幕府直轄・一橋家領)の農民として幕府への忠誠を貫こうとしていたのです。
「農民(名主)・八王子千人同心・甲源一刀流師匠」という三つの顔を持った半蔵の生き様は、幕末期多摩農村にいた草奔の志士達へ、少なからず影響を与えたのではないでしょうか。
(つづく)
*この幕末在村剣術と現代剣道は、2006年4月〜2006年9月まで6回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。