図 書
幕末在村剣術と現代剣道
第3回 天然理心流・近藤勇の巻
全剣連 広報・資料小委員会 委員
工学院大学 教授
数馬 広二
「白刃の戦いは竹刀の稽古とは格別の違も之無き候間、剣術執行は能々致置度事に御座候。」(吉野家文書)(刀での実戦は竹刀稽古と大きな違いは無いので、竹刀稽古をしっかり積んでおくこと)
これは、新選組の局長近藤 勇(1834~1868)が、京都・壬生屯所から、天然理心流の門人へ宛てた手紙の一節です。今回は、幕末期、武蔵国多摩地域に広がった天然理心流の「竹刀の稽古」を取り上げてみてみたいと思います。
勇が学んだ天然理心流は、遠江(今の静岡県西部)出身の近藤内蔵之助長裕が、天真正伝鹿島神道流を学んだのち、寛政5年(1793)頃に創始しました。その稽古は「剣柔の術交て陰陽合対す。是天地自然の道理なる欤。故に当伝指て天然理心流と号す」(『天然理心流柔術免許』)とあり、柔術を併習する剣術流派でした。
内蔵之助は、両国薬研堀(現東京都中央区薬研堀)に道場を持ちながらも、多摩・八王子および相州・相模原、平塚周辺農村で多くの名主層を門人に獲得しました。
勇は、武蔵国多摩郡上石原村(現東京都調布市野水)の農民・宮川久次郎の三男として天保5年(1834)に生まれ、幼名は勝五郎。勝五郎は、15歳のとき、父の建てた道場へ巡回指導に来た天然理心流3代目・近藤周助に入門します。身長は5尺4寸位(約164㎝)、当時の平均(約156㎝)より大きく、8カ月にして『目録』を取得するという才能を見込まれ、16歳で周助の養子に入り、のち近藤 勇と改めます。勇は、『目録』に記される「先弟不器用にして後弟器用を憤る事なし。人一度して是よくせば、己十度し、人十度にして是よくせば、己百度すべし。」という流儀の教えを遵守し修行を重ね、他流の有名な剣客へも試合を挑みました。
たとえば、のち第1回全日本武道演武大会に最高齢で出場し「精錬証」を授与された剣客・直心影流免許・萩原連之助(太郎)の道場へ出向いております(萩原家『剣客名』)。
また、直心影流男谷道場師範代本梅縫之助との試合では「不覚にも竹刀を飛ばされた際、咄嗟に二、三歩飛びさがり双腕をいからせ、かがみ腰に体を構え、寸分の隙も見せなかった。道場主の男谷は『死中に活を見い出すは剣の極意』と勇を賞賛した」(永倉新八遺談)ともいわれ、天然理心流が体術を兼修したことでの面目躍如といったところでした。
勇の剣風について「構えは少し反り加減で、こせこせとした小業のない、がしりとした手堅い剣法で、ぴーんと上手く小手へ入ると大概の相手は竹刀を落とした。掛け声は調子高い細い声でしかも腹の底から出るので実に鋭く相手の腹へぴーんぴーんと響いた」(日野・佐藤俊宣氏遺談)と伝えられております。そのような技法を身につけた勇は、28歳で天然理心流の4代目を継承します。
勇は、養父周助が市ヶ谷柳町(現東京都新宿区市ヶ谷柳町)に開いた試衛館道場では土方歳三や歳三の義兄で日野宿名主の佐藤彦五郎とともに他流派門人を招きつつ稽古をしました。しかし勇は月の半分を、周助以来の門人がいた八王子より東(日野、調布、三鷹地域)の村々へ沖田総司、山南敬助(北辰一刀流千葉道場出身)らを連れ、指導に廻りました。勇は「髪の毛を大髻に結い、ぶっさき羽織(武士の旅行用の羽織)を着て、面や胴を竹刀へ結びつけてこれを担いで、草鞋履きで毎日教えて歩いた。夏は汗びっしょりでやってきた」(佐藤俊宣氏遺談)ようで、また、勇に剣術を教わる代わりに漢学を交換教授した小島鹿之助や、勇が門人家での「とろ飯競争」で19杯を食したとか、総司が痲疹に罹り門人の馬で運ばれた(小島政孝『新選組余話』)などのエピソードは、勇と門人との距離の近さや深い親交をあらわしております。
上洛し、新選組局長として壬生にいた勇は、道場(東西3間半、南北8間)が出来ると、剣術道具と竹刀を送ってくれるよう多摩有力門人たちへ手紙を書きました(『志大略相認書』)。京都での勇たちは、天然理心流を通して出来た「多摩」地縁のネットワークに支えられていたのでした。
勇が門人に求めた「竹刀の稽古」とは、天然理心流の特徴である―柔術(ほかに棍法《棒術》、鉾杖などもある)を併習する教義―を踏まえ、「ハラ」と「気」を練り鍛えるものでした。現在残る、勇使用とされる木刀(長さ101㎝)は、他で発見された太い天然理心流木刀と同様、重量があります。現代剣道が忘れつつある、小手先の技に頼らない稽古を、勇は重視していたのでありましょう。
(つづく)
*この幕末在村剣術と現代剣道は、2006年4月〜2006年9月まで6回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。