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幕末在村剣術と現代剣道
第4回 禅心無形流・田嶋七郎左衛門の巻
全剣連 広報・資料小委員会 委員
工学院大学 教授
数馬 広二
「恐れ乍ら私家は新田岩松満次郎由緒田嶋氏にて(後北条氏に仕しといふ)先祖よりいたく未熟には候えども、田嶋流劔道いたし来り。当時禅心無形流と相改め…」(恐れながら私の家は、上野国の名家・新田岩松満次郎家の流れをくむ田嶋家で、後北条氏にも仕えておりました。たいへん未熟ではありますが先祖伝来の「田嶋流剣道」を修行し、当時(1800年)、禅心無形流と名を改め…)『地誌御調方記録』
これは、1818年(文化15)、幕府地誌調査の役人が、「越生梅林」で有名な武蔵国越生(埼玉県入間郡越生町)に赴いたときに、百姓・七郎左衛門(武郷・又作)自身が述べたものです。
今回は、江戸・日本橋から16里(約64㎞)離れた越生の地で、中世武士のプライドを持ち続け、先祖伝来の剣術を修錬する農民が、新たに禅心無形流を興した背景について、相模国大山御師との関係に焦点をあて述べてみます。
田嶋七郎左衛門源武郷(初代・又作 生年不明~1832年没)は、西上州から八王子、そして相州へ繋がる往還路にあり、六斎市(月に6回の市)で賑わう武蔵国越生今市村の名主の家に生まれました。
又作は、田嶋家伝来の剣術を父より学びますが、1782年(天明2)、越生周辺に勢力を拡大していた甲源一刀流を知り、開祖逸見太四郎義年に入門します。そして「十八年間、夙夜(終日)怠ること莫し。不敏と雖も(剣の素質は無かったのですが)、頗る琢磨之功を知る」と甲源一刀流を修め、太四郎の「内弟子」となりました。その後、1800年(寛政12)、太四郎のもとを離れ、新たに禅心無形流を創始するのです。そして越生地域のみならず、江戸坂町(現東京都新宿区四谷)や川越藩主秋元左衛門助の陣屋にも出張指導するまでになりました。
1823年(文政3)、又作の家に宿泊した塩野適斎(八王子千人同心)が、又作の道場の様子を『桑都日記』に記しました。
これによると、又作は「礼に称」い、「剛毅(意志がしっかりとして)篤実(人情に厚く誠実)」な人物であり、「主従十八人を容るるに足り」るほどの広い屋敷に住み、自宅奥の方に「撃剣場を設け」て、禅心無形流の「術を郷党(近村、親類)の少年輩に教授」しておりました。
また研究熱心であった又作は、塩野適斎が「大平真鏡流剣術」の「八王子指南役」であることを知ってか、適斎を「撃剣場に誘引し、懇に(じっくりと)術の路を話」したとあり、適斎に旅の疲れを忘れさせるほど有意義な会話をしたことが述べられております。
このように「撃剣」という文化は、流儀の壁を越えて、術理に関する情報交換を可能たらしめたことがわかります。
さて、又作は禅心無形流を創始するにあたって、郷社・春日神社(越生町西和田)へ「門人姓名額」を奉納しました。その「額」に記された114名の門人のうち21名は、甲源一刀流逸見太四郎の門人であったはずの相州大山の神職―大山御師だったのです。つまり大山御師は二流(甲源一刀流と禅心無形流)の門人を兼ねていたのでした。
大山(標高1252m・現在の神奈川県伊勢原市)は、石尊大権現と雨降山大山寺を中心に真言密教の修験の場でしたが、江戸時代なかば以降、関東、東海地方の農民、職人、商人、漁民から信仰の地となりました。信者は「講」をつくり、夏季に「坊入り」と称して、大山御師宅(坊)に初穂(その年最初の収穫物)を届け宿泊し、翌朝に大山を参拝します。この「講」を先導したのが「御師」でした。冬になると、大山御師は檀家のある農村へ祈祷の巡廻(「檀廻り」)をします。その往来の護身のためにも剣術が必要でした。彼らは、自らが入門した剣術流派の門人たちの間に檀徒を獲得し、信仰圏を拡大することをも図ったのでした。
禅心無形流の興った越生一円では「大山信仰」が盛んに行われ、又作の分家で禅心無形流門人の田嶋代四郎が「講元」(信者のとりまとめ)を務めました。
又作もまた、禅心無形流の創始にあたり、大山御師の廻村(「檀廻り」)を媒体にして流儀の伝播を図ろうとする流派経営上の期待もあったと思われます。
禅心無形流の名は、残念ながら幕末に消えてゆきましたが、創始の背景には、「家伝の剣術」を継承することに努力した一農民の真摯な姿を見てとれます。
(つづく)
*この幕末在村剣術と現代剣道は、2006年4月〜2006年9月まで6回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。