昭和20年終戦の時、私は小学校3年生で北京にいた。そして翌年1月、親子4人で苦労して日本に引き揚げてきた。小学校4年・5年と母の故郷の山口県で過ごし、5年生の終わりに一家が上京し、世田谷区の東大原小学校へ転校した。
そこで知り合った友達に、佐藤紅緑(サトウハチロー氏―佐藤愛子氏のお父さん)の少年熱血小説を紹介され、たちまち夢中になった。貸本屋に入り浸り、殆どの本を読んだ。そして人生で一番大切なのは〝友情だ〟と思った。
親父は「お前は本当に単純なんだなァ」と嘆いたが、何しろ小学校を5回変わり、親しい友人も出来なかったこともあって、この思い込みは強かった。佐藤紅緑の本には、三国志の話が度々出ていた。
中学に進学し、仲の良い友達が何人も出来た。2年生の終わり頃、1人の友人の家に『三国志』(吉川英治)があり、全14巻を皆で回し読みをした。そして、感激をした揚句6人で義兄弟の縁を結んだ。
三国志では、玄徳・関羽・張飛の3人が義兄弟なのだが、我々は6人なので、孔明や趙子龍も入れた。血判の代わりに朱肉も使ったが、その宣書は玄徳役の友人が今でも大切に持っている。残念ながら、6人のうち3人は他界したが、残った3人で時々会って、旧交を温めている。
高校に入ってすぐ剣道を始めた。学校剣道がまだ許可されていなかったので、警視庁・北沢署で教えてもらい、熱心に稽古に通った。2年生の時(昭和28年)には、学校剣道が許可されていたので、すぐに高校に剣道部を作ってもらい、第1回生として後輩を教えた。この剣道部は5年前に創部60周年を迎えた。
部発足当時の人たちは、皆60年以上の付き合いのある友人である。
高校の大半と大学4年間は、剣道中心の毎日を過ごした。大学在学中は稽古と部の運営に明け暮れたが、その時の同期の友人は今でも十数人、夫々元気で頑張っている。現在私は愛知県に住んでいるが、東京へ来ると時々彼らに声をかけて、一晩楽しい時間を過ごす。
これら剣友たちとは、毎日汗びっしょりにながら稽古に励んだ思い出や、お互い励まし合いながら、1つ1つ勝ち上がっていった試合の思い出などは、今の信頼感、友情のベースになっている。稽古に励むことで、自分の心身を鍛えることは勿論だが、同時に友情を育む。年をとって、改めて〝剣友〟のありがたさを感ずる。
警察庁長官を務めた國松孝次君とは、大学剣道部で同期だった。今でも時々会っている。当時は、毎日道場で汗をかきながら稽古に励み、試合で勝った、負けたと、喜び合ったり、残念がったりしたが、他にも共通の思い出は、先輩から寄付をもらうため、春山洋一君を含めた同期3人で、最高裁判所や通産省、幾つかの商社などを訪問したり、遠征費用を稼ぐため、ピアノ・リサイタルを開いたりと、慣れないことで互いに苦労した。
これらは、ついこの前のように鮮明に覚えていて、会うと良くこの話をする。
近年、日本に救急ヘリが導入され定着したが、これは國松君が主導し、苦労しながら成し遂げたものだ。大変大きな、そして重要な仕事であり、友人としても鼻が高い。
友人の中には昔の〝剣友〟たちが多いが、会社や仕事関係の人たちもかなりいる。
考えてみれば社会へ出て60年近く経つ。その間、色々な仕事を経験してきたが、そのどれもが色々な友人・知人たちに支えられ、助けられたものだった。皆で協力しながら成し遂げたことも多い。
自分1人でやれることなんて、あまりないと改めて思う。
振り返ってみると81歳になった今でも私には元気な友人が多い。上京する度に声掛ける相手は、中学の義兄弟・高校の剣道柔道仲間・大学の剣道部・会社の友人たち・アメリカで共に苦労した仲間たち等々、まだまだ会って酒を酌み交わす友人は多い。本当にありがたいことである。
あの世に行ったら親父に会って「矢張り間違っていなかったよ」と言ってやろうと思っている。
全日本剣道連盟会長
国際剣道連盟会長
張 富士夫
Fujio CHO