剣道をやって本当に良かった。剣道のお蔭で自分の人生の進む道が見え、そこをコツコツ歩いて来た── 今の自分はそう信じている。
会社へ入社して7年目、生産現場での工程改善をする部署へ配置転換する旨の社命が出た。上司は私が事務屋なので、無理ではないかと意見具申をしてくれたが、任命した生産担当の常務は聞いてくれなかった。
現場では〝改善の鬼〟と呼ばれたこわい部長からびしびし仕込まれた。最初の感覚は剣道を始めた時と同じように感じた。現場では大きな声で叱られながら新しいことを1つ1つ覚えていった。ある程度仕事が分かるようになってから「担当常務は範士九段、担当部長は教士七段だな、自分はまだ三か四級で、初段はとても無理」など、剣道に例えて内心ニヤニヤしながら仕事に励んだ。
このお2人は、独自の工程改善をベースに新しい生産システムを作りだし、当時からすでに会社の内外で有名だった。ただ、教え方が怖かったので皆敬遠していた。「張さん、あんな人たちの下で良く我慢してますね」と言われたこともあったが、「剣道だと大声とともに打たれたり、突き飛ばされたり、羽目板にぶつけられたりするけど、この職場は大声だけだから、どうってことないよ」と答えていた。
厳しい指導のお蔭で割合早く色々なことが出来るようになった。そしたらある部品メーカーに行かされた。この会社の社長が我々の手法を教えてほしいと頼んで来られたのだ。人も部品も設備や工程も全くなじみのないところで、ゼロから改善をスタートすることは中々大変だったが、気持ちは「武者修行に出されたな」という感じだった。
半年程かけて、その会社の中に〝仲間〟を作り、工程を変える動きも軌道に乗ってきたところで、「別のメーカーへ行け。今度は遠いので、泊りこみだぞ。きちんと結果を出すまで帰ってこんでええでな」と三河弁で言われる。こんな具合で外注メーカーさんに3か月から半年、長い所では1年くらい。その間本社の工場改善も加わり15年が過ぎた。訪れた他社は長短合わせて100社を超える。
振り返ってみるとこの15年は、初め猛稽古で仕込まれて、ある程度やれるようになったら、他流試合や武者修行の連続だったが、全く経験のない生産現場へも道場に出るような気持ちで出て行き、仕事を仕込まれた時も稽古と思い普通の気持ちで受け止めた。剣道をやっていたお蔭である。
そして16年目、両師範が定年で退社された。先生がいない所で、今度は自分が一番年長者としてやらなければならなくなった。若い人に教えながら、販売部門の物流改善などをやった後で、1986年アメリカに工場を造るから、そこで現地トップでやって来いとの会社命令。全く考えたこともない事態が次々と起こる。
アメリカに住んだ経験もなければ、英語もダメ。会社経営もやったことがない。やったのは生産工場の工程改善中心の仕事だけ。その自分がなんでアメリカへ行って新しい会社を経営するのか。内心ブーブー言いながらアメリカへ向かった。会社としても初めての米国工場建設だった。場所はケンタッキー州スコット郡ジョージタウン市。約3,000人の従業員を雇って20万台のクルマを生産する計画だった。
アメリカの社会にどのように受け入れてもらうか、アメリカ人といかに仲良く仕事ができるか、日本式のやり方がどこまで通用するか、色々な課題を少しずつこなして行った。全く新しい経験でもあり、関係者全員が協力して1つずつ課題をこなして行ったこともあって、総じて言えばうまく行ったと思う。
2年後には順調に生産ラインが出来上がった。その後、増産体制で新しい工場もいくつか立ち上げ、結局現地に9年いた。その中で色々勉強したが、これについては次の7月号で報告する。9年経って日本へ帰国する時、当時の会長から「もう、張君が事務屋と思う人は誰もいないだろう」と言われ、何だか卒業証書をもらったような
気になった。
全日本剣道連盟会長
国際剣道連盟会長
張 富士夫
Fujio CHO