アメリカ人と一緒に働いて「すごいな」と感心させられる事の一つは、彼らの戦略的思考(?)である。何か大きな事をやるという時は、目的は何か、どんなやり方を用いるか、情報はどう集めるか、何を使うか(どんな道具)等々を最初からきちんと決め、それを関係部署や個人に割り振って、その通りに実行する十分な時間を取って、余裕を持って実行する。
我々日本人は、どちらかというと余り細かく決めず、その時その時に合わせて臨機応変にやるのが得意で、始めからキチンと作戦を立て、それに従うのは、ちょっと苦手な所があるので、このアメリカ流の戦略・戦術は、本当に勉強になった。
最初に驚かされたのは、工場の開所式だった。2日間で何万人の方が来場するか、それはどの道を通って何人か、そのための駐車場はどれだけ、どこに用意しなければならないか、どの駐車場に行ってもらうかは、上空にヘリコプターを飛ばして空いている所を指示する。工場の案内ルートは、こことここ。休憩所はここ、飲み物やお菓子はどれ位用意する等を、全く我々の想像を超えた調査と準備状況で、またその通りに事は進んで、開所式は成功裏に終わった。
始め、我々日本人は「ここまでやるの?」と思っていたが、米国人達が目的を明確にし、きちんと調査をし、やる事を決め、それを一人一人に割り振り、夫々の担当は決められた役割を責任持ってやり遂げた事を見て、「これはすごいな」と本当に感心した。
この開所式から3・4年後、工場は大変順調に推移し、成果も上っている時、イヤな事件が起きた。それは日本発のものだった。日本の政治家の一人が故郷に帰って支援者に話をしている中で、日米の労働者を比較して、日本の方が優れている、米国の労働者の中にはこういう人もいると、かなり侮辱的な言葉で実例を挙げた。この中身を日本の新聞が大きく取り上げた。
たまたまその日、私は日本に出張で戻っていたので、朝刊を見てゾッとしたのを未だ覚えている。私のスケジュールは、その日に日本を発って、まずニューオリンズに寄って講演をし、翌日ケンタッキーに帰る計画だった。ニューオリンズに着くと、もう相当な騒ぎになっていた。記者や開催者に色々質問を受けている中で、ケンタッキー会社の仲間(米国人トップ)からのファックスが、私の手元に届いた。
その中身は──
①今週土曜日のレキシントン・ヘラルドリーダー紙の1面に、この件に関して空けてもらった。
②ここに貴方の名前でこういう文を載せる、了解せよ。
──というものだった。
この数年間、私が米国内あちこちで講演した内容をまとめたもので、米国の作業者がいかに真面目で働き者かについて、自分の実感を述べたものになっている。色々の実例が挙がっていたが、その中で「雪の日の物語」が後で大変有名になったので、簡単に御紹介しよう。
1988年に生産が始まった最初の冬のある日、雪が降った。雪は午前10時頃からどんどん強くなり、積り出した。朝6時から生産ラインについていた1直目の作業には問題ないが、午後3時から始まる2直目の人達は出勤できないだろう。午後から生産中止をせざるを得ないのではないか―日米の経営陣で緊急会議を開いている時だった。工場長が目を丸くして、この会議に飛び込んできた。
「今、1直目の作業者が私の所へきて、この天気では2直目は出勤できないだろうから、我々が残って2直目の作業をやるよ」と言ってきた「それも一人や二人じゃないのだ。大変大勢の人達が言ってきている」と。そんな事は我々誰も聞いた事もない。すごい申し出だ。一同みな感動した。
しかし、その好意に全面的にすがるものかどうか、と考えている時、今度は人事部長から2直目の人達がどんどん出勤してきている、という報告が入ってきた。彼らはこの雪では時間が掛かるだろうからというので、朝の内に家を出て11時頃には大勢出勤してきた。3時からの生産には多分全員揃います、という報告なのだ。
結局、2直目も生産は順調にスタートでき、大雪にもかかわらず問題無く工場は動いた。私はこのような事は日本でも経験した事が無かったので、いかに米国人労働者が優秀か、という事例を使い、あちこちで講演した。
米国人トップの戦略は、私のこれまでの講演をまとめて「現地の日本人経営者は、米国労働者が大変優秀だと感じている」というメッセージを地元の新聞に載せ、このコピーをNYタイムスやワシントンポスト等の全国紙に配り、全米に知らしめる事だった。
コピーを配って1週間程経った頃、日本の議会でこの問題が議論され、その過程でまた不適当な言葉が出て、折角米国内で収まりかけていた本件に、また火が付いた。
そうしたら、米国各全国紙が現地日本人経営者の声として、このコピーを大きく報道したので、燃え上がりそうになったこの問題はすぐ収まった。
また、米国の議会でもケンタッキー地元議員が大統領の前で、この記事を読み上げ、議員の皆さんも納得したと聞いた。この記事は日本でも読まれ「雪の日の物語」は、色々の人の知るところになった。
私の周辺の事を申し上げると、ニューオリンズから戻った日から大変厳しい抗議の手紙がきた。中には我々日本人を、ジャップ・ジャップと呼んできた手紙もあった。それがケンタッキー地元紙の土曜版に私の意見が掲載されると、翌週の手紙のほとんどが「サンキュー・レター」に変わった。
60家族の日本人をしばらく遠くへ避難させねばいけないか、と心配していたが、本当にホッとした。同時に、この事件が起きたらすぐこのような方法で皆を守る、という戦略を立て、実行に移して行ったアメリカ人トップ以下の経営陣に対して「すごいな、とても敵わない」と、強く感じた。
全日本剣道連盟会長 国際剣道連盟会長
張 富士夫
Fujio CHO