アメリカから帰ってもう20年以上になる。所が未だに色々な人から「あの節はありがとうございました。地下室では本当に楽しませてもらいました」等と言われる。それも半分位は知らない人に。
私がアメリカ勤務を始めたのは、1986年春からだったが、その前に一度出張してケンタッキーの工場候補地はどんな所かを見に行った。行ってみて驚いたのは、教会が多く大変敬虔なキリスト教徒の街という印象であった。しかも街はお酒を売る事を禁止するドライ・カウンティー。自宅で飲むのは可。
工場立ち上がり時は、日本からスタートアップ支援のため多勢の現地指導員・若手の班長・組長らが来る。彼等は当然夜は食事と共に一杯やるだろう。土・日曜も皆で集まるに違いない。もし、彼等の一部の人でも酔っぱらって歌でも唄いながら街を歩けば、これはまずい事になるだろう、と思った。
生産に対する懸念より、日本人がどうこの街に馴染んで行くのか心配だった。
出張から帰って真っ先に上司の常務に報告したのはこの事で、「まず現地に社員クラブを作って下さい」と頼んだ。常務は「言う事は分かるが、まだ工場も出来ていない内に社員クラブを作るという訳にはいかんぞ」との返事。それもそうだな、仕方ないか、でも心配だな、と思った。
翌月に現地に赴任して仕事を始めた。春までに用地取得が終わり、整地・工場建設・機械設備搬入・試験運転・試作と、計画は順調に進んだ。そしてこの年の暮れに部下から相談を受けた。「実は、張さんの家をずっと探していたけど良い候補がない。現地トップの家は一度に150人位呼んでパーティーが出来ないといけない。だから新設する事にします」との事。
その図面を見ながら疑問に思ったのは、地下室がある事だった。「なぜ地下室が?」と聞くと、この辺りはトルネード(竜巻)がよく来るので、地下室が必要、これは非常用なので、特に入れる物がある訳ではない、と。
「よし、ここを社員クラブにしよう」。すぐ決心した。
1987年半ば頃に、我が家も完成した。この頃になると日本から建設・設備・生産・物流等の関係者が沢山出張して来るようになった。この人達に、夜くつろいでもらうために、地下室に応接セット・冷蔵庫等を入れた。そうして驚いた事に日本から〝カラオケセット〟が届いた。上の人達は私のリクエストをちゃんと分かっていたのだと、思った。
カラオケのお蔭もあり、地下室の稼働率はほぼ100%だった。最初、私は会社の従業員や出張者が対象と考えていたが、間もなく地元の米国人の皆さんも来て楽しまれ、又、建設関係・物流関係で仕事に来てくれている他社の人達も次々と利用するようになった。
我が家を留守にしていても全く関係なく皆さん大いに利用してくれた。お酒や日本のおつまみは出張者が皆持って来てくれるので、ここへ来ると日本酒や干物が味わえると、好評だった。私は何も言わなかったが、場所を提供すると、全てが自動的に回り出した感じだった。私も存じ上げない他社の方々も多く来られたが、中には「ここで忘年会をやろう」と決めた会社もあり、毎年12月20日過ぎに全米から日本人駐在員が集まって楽しく過ごしていた。
又、年末は設備メンテナンスや入れ替えの人々が工場で仕事を行い、夕方から地下室に集まって年を越すのも毎年の事だった。年末年始を家族と過ごす事は出来なくとも、仲間と一緒にアメリカの地で雑煮を楽しむ事は出来たのだった。
このように殆ど毎晩賑やかな会食がほぼ9年続いた。会社でも多くの方々にお会いしたが、夜の地下室でも沢山の方々と楽しく過ごした。又、夜は雰囲気が和み色々な方々からとても良い意見やアドバイスも頂いた。こんな事は全く想像もしていなかった。特に生産関係以外の方、即ち建設・施工・物流・船舶等、普段ゆっくりお話しを聞く機会のない方々と多くの時間を一緒に過ごす事が出来たのは、自分にとって大変な勉強になった。
丸9年勤めた後、1995年1月から日本の本社に出社した。23年前の事である。帰国した直後から今日まで、大変多くの方に冒頭のような御礼のご挨拶を頂いた。初めは現地とのトラブルを起こさないようにと思ってした事だったが、外国に出張し一生懸命働く日本の人達にホッとする一刻を提供したのだったな、と今は感じている。
全日本剣道連盟会長 国際剣道連盟会長
張 富士夫
Fujio CHO