この歳になって、自分の人生を振り返ると、大変多くの先生方、先輩、友人の皆さんに教えを受け歩んできた。今更ながら有難い事だと、しみじみ思う。中でも直接指導して貰う師匠に恵まれた事について自分の幸せを今感じている。
高校入学したばかりの昭和27年4月、友人の山田希一と剣道の稽古を北沢警察署の道場へ見に行った。どんなものか見てみたいという軽い気持ちだったが、道場の窓から見ていると、突然稽古が止まって、中からヒゲの生えた大きな先生が出て来た。「お前ら何やっている」「ハイ、見ています」「よし、中へ入れ」中でゆっくり見せてもらおうと思って入って行くと、先生は稽古中の署員に「オイ、防具を付けてやれ」あっという間に面、小手まで付けられ竹刀を持たされた。道場に立たされ、先生が「打ってこい」と言われるけど、どう打てばよいのか分からない。見様見真似で「メーン」と打って行ったら、竹刀を弾かれ、次の瞬間「メン」「コテ」「ドウ」と次から次へと叩かれた。多分2分位の間に200~300発打たれたのではないか。
山田も同じ様な目に合い、帰りにそば屋へ入って話した。2人共、頭ズキズキ、右手は赤く腫れていたが、「このまま引き下がったのでは、男がすたる、明日から稽古に行こう。3~4カ月もやったら、あのヒゲも叩けるだろう」が結論。
翌日道場に行った時、ヒゲの先生(杉本七段)は「ホウ」と意外そうな顔をされたが、この日は前の日とは違って全て一から教えて頂いた。防具の付け方、竹刀の持ち方、打ち方等々である。
これが私達の剣道との出合いだった。熱心に毎日通ったが、先生は基本である面打ちと体当たりだけしか、させてくれなかった。これが一番基本であり、繰り返しが大切だ、という事だった。1年経っても小手とか胴は打った事が無かった。
2年生になった頃、近所の神社の奉納試合に出てみたら、面白い程面が決まる。あちこちの神社へ行って何回も優勝した。この事は、自分を大きく変えた。それまでは何をやっても上手く行かなかった。
小学校3年の時終戦になり、中国の北京から翌年日本へ引き揚げて来た。転校が多かったので、その都度友達を作ろうとスポーツに参加したが、どれも上手にならない。中学の時は「今度こそ」と思って野球の練習を重ねたが、補欠止まりだった。
勉強も運動も何をやってもだめだと思っていたが、強い先生に付いて基本を確り叩き込まれれば、自分だって強くなれるんだ、という自信みたいなものが初めて心に湧いたのだ。
学校生活も積極的になり、生徒会活動もやり、2年生の時、学校剣道が解禁になったので剣道部を作って貰い、部の運営や下級生の指導もやる様になった。杉本師範の稽古は厳しかったが、しっかり仕込んで貰ったお蔭で剣道以外でも自信が出て来た。「やれば自分でも出来るんだ」という気持ちになり、学校生活に対する考え方が大変積極的になった。
3年生の春、我が家が引っ越して市谷に住む様になった。毎日北沢署に通うのは難しくなったので、杉本先生にきちんとお話をして近所の四谷署に通う事を許して頂いた。誰の紹介も無しに、飛込みで四谷署の道場に「教えて下さい」と言って、そこでお会いしたのが赤間先生だった。
この道場で四谷署の方々と共に稽古に励んだが、赤間先生は稽古が終わった後、誰も居なくなった道場で竹刀を構えながら色々教えて下さった。
「四戒(驚懼疑惑)」もその時実際に竹刀を構えながら習った。
その中で一番心に残ったのは、青眼の構えをさせられ、正面に立たれた先生から「この構えは一番隙の無い構えだ。それなのに何故打たれるのか、よく考えてみよ」と言われた事だった。結局「不動心」が大切だという事だったが、これは剣道に限らず、その後の社会人生活でもずっと私の心を離れず、努力目標としたものだった。
個人の生活でも色々な事柄を確り受け止め判断する事が大切であるが、社会生活になると、多勢の人と多様な関係が出来てくる。自分の判断や行動が多くの関係者に影響を与える。歳を取ってくると組織の中では部下が出来る。
トップがバタバタすると部下は混乱する。色々な出来事に対してじっくり受け止め一番良い策を取る事が大切であり、そのために「不動心」を日頃から養っておく事が役に立つと思う。有難い事に、剣道を習っていたので、心の持ち方まで勉強させて貰った。
このお二人の師匠に教えて頂いた事は、その後の進路にも大きく影響したと思っている。大学は4年間剣道尽くめの学生生活で、多くの友人も得た。就職は剣道のご縁で入社が決まった。
仕事も〝現地現場〟に何の抵抗も無く、稽古の積りで何処へでも飛び込んだので、直ぐ覚える事が出来た。会社の中でも今度は仕事面での師匠に巡り会えた。その話は次号に回す。
全日本剣道連盟会長 国際剣道連盟会長
張 富士夫
Fujio CHO