今月号は「趣味」に関する事を、との編集者のご要望だったので、音楽について書いてみようと思う。趣味と言えるかどうか自信ないが、若い頃から音楽を聴くのが好きだった。
特に剣道を始めてからは、自宅で夕食後にレコードかけて静かなひと時を楽しんだ。色々な音楽を沢山聴いて時間を過ごしたが、大学生活も後半になると好みがクラシックとなり、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルトをよく聴くようになった。それと同時にこれら作曲家の伝記や手記を併せて読むようになった。どんな生活をしていたのであろう? どんな所でこのような名曲を作ったのだろう? 興味が尽きなかった。
そして分かった事は、この3人の作曲家は決して裕福な暮らしをしていない、いつも孤独や病気や貧乏と闘いながら素晴らしい名曲を沢山残したという事だった。その中でベートーヴェンは他の2人より大分長生きで50歳を超えるまで作曲を続けたが、その多くの曲が晩年になる程名曲が増え、特に弦楽四重奏は後期のものが素晴らしく、自分の人生の終わる時には是非これらの名曲を聴きながら…と思った。
この晩年になる程質の高い、そして奥の深い作品が増えてくるという事は、ドイツの哲学史の中でも稀有の例であると、本に書いてあった。ドイツ語の翻訳では「死ぬまで『発展』」と書いてあった。
確かに、音楽だけではなく、文学でも絵画でも代表的作品は、作者の脂の乗り切った時に作られた事が多い。晩年に向かう程内容が高くなるという例は、他には余り聞かない事だった。
自分は何かを作る芸術家でも作家でもないが、どんな人生であれ、剣道人にとっても、死ぬまで「発展」を続ける、あるいはそういう努力を続ける事は素晴らしい事ではないだろうかと、その頃から思い始めた。
今から約20年前、ドイツに居る高校時代の友人からウィーン国立歌劇場の総監督を紹介してもらった。日本で私の勤めている会社主催のコンサートを行うという話を纏めるためだった。この人と懇意になったため、普段日本人もなかなか行けない所へ沢山案内してもらった。ウィーン国立歌劇場やバイロイト音楽堂、ベートーヴェンがピアノ協奏曲を作曲した家等々どれをとっても音楽好きの人々にはたまらない場所だ。
中でも「ベートーヴェンの散歩道」を歩いた事は、一生の貴重な思い出となった。ウィーンの森の中から田園調の畑の続く細道で、ここをベートーヴェンはよく散歩しながら曲の構想を練ったそうである。この道を登って行くとやがて葡萄畑が出てくる。畑の横に簡単なベンチが並んでいて、そこでワインが飲めるようになっており、美味しく頂いた。
曲を沢山聴くだけでなく、本も沢山読み、さらにベートーヴェンが書いた書簡集も繰り返し読んだ自分にとって、作曲家が住んだ家や散歩した道を訪問できたのは、一生忘れ得ぬ思い出となった。
2006年に「毎日経済人賞」を頂いた。この副賞として有名書家の書を頂けるという事で、どんな文字が良いかと問われ、私は「発展」をお願いした。勿論ベートーヴェンの晩年まで発展し続けた作品を考えての事である。書は金子卓義先生に書いて頂いた。
以来、この額は会社の私の部屋にずっと飾ってある。これを13年間毎日見ながら、自分も死ぬまで人間的に少しでも成長しなければならないと、自分に言い聞かせて続けている。
全日本剣道連盟会長 国際剣道連盟会長
張 富士夫
Fujio CHO