世の中に漂う「武道の香り」が、近時、薄らいできた感がある。
剣道界で見れば、立合いが醸し出す張り詰めた緊張感が、観客の心にまで届かないものとなったか。はたまた、稽古を継続する社会人の数が減り、数で積み上げる香りの濃度が下がってきたのか。
ために「ポストコロナの志」として、「武道の香り」を回復することを念頭におき、年初に三点を提唱したい。
一 真っ向勝負
世界でも稀な「鎬」を備え持つ「日本刀による戦い」は、相手の刀が振り向かう刃先の下に構えて立ち、その「覚悟した窮地」から勝機を見つけるという戦法を取る。それが剣道600年の歴史の中で、先人達が命をも代償として磨き上げてきた「民族の戦い方」である。
しかしながら、この十年来の試合風景は、本来の刀による立合いが持つ緊迫した雰囲気からは、遥かに程遠い印象のものであった。
そこでは「鍔ぜり合いを悪用し」、姑息な騙し技を互いに繰り出す例が横行していた。
コロナ禍の下で対戦者間の密を避けるため、試合・審判委員会の提唱により「新しい審判法」を導入した。これには事実上「鍔ぜり合いを封ずる」狙いがあった。
この新しい審判法を最初に適用したのは、令和3年3月に長野で同時開催した男女の全日本剣道選手権大会であった。
結果は、対戦者が真正面から対峙する緊迫した試合が続き、誰もが「これが正しい剣道であった」と評価する内容であった。
今年は、この「真っ向勝負」を国内で定着させ、更に世界剣道選手権大会に向けて、新しい審判法とともに、世界各国の理解を求めたい。
二 35歳の峠越え
剣道に熱中した若者が、社会に出てから次第に稽古から遠ざかっていく過程は、昔も今も変わりがない。 多くが「35歳」の峠を、稽古を続けながら越すことが出来ないでいる。
中年となって、職業生活に余裕が生まれ、東洋文化による癒しを求めて、剣道のリバイバルを試みる者も多々いるが、「一度中断した稽古事」の常として、その後も長く継続することは難しい。
女性の場合には、人生のステージ毎の変化が大きく、体力も落ちて、「子育ての後」の稽古の再開は、更に困難な事情下にあるようだ。
剣道から遠ざかっていく社会人の「各年代層を励まし」、剣道の世界に留まることを勧めたい。こうして大人社会の剣道人口が回復し、武道に心を置く機会が増せば、社会に漂う武道の香りも蘇ってくるだろうし、
次代を継ぐ子供達も、剣道に憧れを持つ筈である。
三 攻防の技を錬る
稽古を継続する「励まし」の手段として、昇段審査に向かう努力を、各年代層に勧めたい。
剣道段位の社会的評価は、なお高い。段位の高まりは、「攻防の技の練度の積み上げ」であり、「年齢なりに」、「性別なりに」、積み上げていく深みと広がりがある。
稽古を続けて新しい段位を得れば、人生に対する新しい「自信」を得るとともに、新しい「心の景色」を見ることが出来る。そうして武道の香り豊かな「生涯剣道」に繋がっていく。
「武道の香り」は、民族の財産である。正しい剣道による感動を共にし、世に漂う濃度を高めたい。
公益財団法人全日本剣道連盟 会長
稲川 泰弘
Yasuhiro INAGAWA