暑い夏の日が続く中、8月15日の終戦記念日を迎えます。日本武道館での戦没者追悼の式典が行われ、全剣連事務所に近い千鳥ケ淵の戦没者墓苑、靖国神社は参拝、慰霊の遺族、関係者で賑わうことでしょう。
この時期全剣連設立五十年事業としてて取り上げた、剣道史編集作業を進めており、委員各位のご努力により、骨格の形成段階に入りました。剣道の長い歩みを正しく纏めて戴くよう期待しています。この中終戦を境とした数年の時代は、剣道の歴史の中で、明暗と浮沈を経験した激動の時期でした。これを乗り越えた剣道の歩みを正しく歴史として、後世に伝えることは特に大切であると感じており、編集作業に期待しておりますが、その一助にもと記憶をもとに私見を綴ります。
昭和に入ってからの日本は、世界的不況の影響をどうやら乗り越え、軍需産業を後ろ盾にしての経済成長が進み、社会全体の活力も上昇して行きました。剣道への社会的関心も高まり、数回の天覧大会が注目を集めるなど、活発な時期であったと言えます。
しかし昭和12年に軍部は支那事変を始め、これが泥沼に入って行きました。その解決を課題として、政府は昭和15年頃より国家総動員体制を進め、経済のみならず、社会の分野での統制を強めていき、中央集権体制が進みました。高度国防国家の建設、樹立が国全体の合い言葉となり、日本精神作興が叫ばれ、外来のものが抑圧される風潮になって行きました。
このような世相の中、体と心を鍛えることを目指す剣道は、好ましいものとして奨励されてきたことは事実であります。しかしすでに剣道は中学校の正課として取り入れられていましたが、教育の普及度から、これを修めるものは少数にとどまり、現在のように大衆に広がるといったことははありませんでした。また剣道を戦争に役立つ武技として動きは無かったと思います。
昭和16年12月ついに日本は米英諸国との戦争に入ります。私はこの時期に学窓を去ったわけですが、大学の道場での剣道はとくに変わった所はありません。戦況がよかった翌17年もほぼ同様で、学生の大会なども行われた筈です。ただ大会などへの官庁の統制が強化され、自由にできにくくなったことや、三尺六寸の竹刀を使い、一本勝負が奨励されるなど、時局の影響はあったと思います。
さて個人の思い出になりますが、私は大学卒業後官庁に入り、間もなく、短期現役という制度の陸軍航空の技術将校の教育を受けることになりました。学校には予想以上に立派な道場があり、剣道の科目もありましたが、合間に稽古をすることもできました。軍隊で帯刀するのは将校だけで、数から言っても全体の一握りです。行われているのは将校の教養としての普通の剣道で、刀で実戦を戦うといった考えは見られません。
ここで軍隊での剣道経験に触れます。任官後、満州西部の地方都市の部隊に赴任しましたが、17年秋に地区の剣道大会があり、軍官民が集まる団体戦に出場し活躍した思い出があります。その後駐屯地航空部隊の運動会で剣道試合の審判を務めました。出場者は若手将校で、屋外広場での靴履きの試合でしたが、打突部や試合方法は普通の剣道です。
さて国内で社会が戦時一色になったのは、敗勢濃厚になった昭和18年の後半からです。20年の夏の終戦までの約2年が、日本全体が完全な戦時体制に入り、社会の諸活動は勿論、剣道にとっても全く逼塞した時期となります。18年秋に一部を除いて、学生の徴兵延期制度が無くなり、一斉に学徒が動員されます。また職場から軍への召集が相次いで行われ、剣道関係者もこれを免れることはできませんでした。
翌年に入ると学校生徒は各地で軍需工場などに勤労動員され、学業はほとんど行われず、学校での剣道部の活動や教育は実質的に不可能になります。20年に入ると都市への爆撃が始まり、内地は戦場になり、生活にも追われ剣道どころでない状態が続き、ついに敗戦に至ります。
剣道は敗戦による占領政策によって弾圧され、「戦前の隆盛から火が消えたようになった」と三十年史にも記されていますが、事実は戦争末期の時期にすでに剣道の火が消えた、仮死状態になっていたと理解すべきと思います。戦中の時期を通じて、戦技化というような剣道の変質はなかったはずです。ただ統制団体となった大日本武徳会は、政府と不即不離の組織で生き残り、ある程度の活動をしたかと思いますが、戦後解散の憂き目を見ます。
今回はここで打ち切りますが、戦争末期の時期の剣道そのものの実態につき、ご承知の方も多いと思いますのでぜひ情報を寄せて戴くようお願い致します。