前号に述べましたが、兵役への学徒動員が行われた昭和18年秋の頃には、国内はすべてが戦争のためという状況でした。この時期の私の母校(旧制武蔵高等学校)の事情を、後輩の剣友星埜禎男君の思い出から紹介します。昭和18年夏のインターハイは文部省の指示により、学徒体育大会の名のもとに各種目計画され、剣道では竹刀の長さ三尺六寸(108cm)以内、重さ百三十匁(490g弱)以上,服装はゲートル巻きにズボン、試合は屋外で行う決まりで、さらに出場者は当時行われていた体力検定初級以上の者という制限付きでした。しかし戦局の推移から直前に大会中止の通達があり、実行に至りませんでした。翌年に入ると、まず高校生は勤労動員に、さらに中学4年生までが動員され、部の活動は事実上夏を以て休眠し、20年4月の戦災による道場焼失によってその息の根を止められたようです。
前号の熊本剣連緒方仁司氏の投稿で、昭和18年秋の中等学校戦技錬成大会に参加された思い出が披露されています。中学以上の学校では、すでに戦前から軍人教官による軍事教練の時間があり、まさに戦技訓練が行われていましたし、この時期中学校ではさらに拍車がかかった筈です。先の話は戦技錬成に武道が組み込まれた例で、日本型近代五種競技といえるものでしょう。戦技として実戦の役に立つとは思えない武道が、訓練に使われたのだと思います。
終戦直前のこのような流れが、戦後の学校における剣道禁止に繋がったわけです。万事戦争のためという時期ではあり、非難までは出来ませんが、当時も唱えられていた武道の本質を曲げた、教育行政に関係した人々の責任の重さを認めざるを得ません。
さて大会の開催は、統制下にあり勝手に行えない状況でしたが、多くの場所での剣道は生きていました。歴史ある道場、一部の大学、高校、会社の道場などです。私の承知した所でも、日立鉱山の本山道場、山下の大雄山道場などでは、人数は減っても、戦時下稽古は続けられました。戦争末期の剣道事情の記録は乏しいのですが、至る所で生き続けた剣道が、戦後の復興の原動力となります。
ついに日本は降伏、占領下に入る戦況はますます悪化、空爆の激化、沖縄失陥、広島、長崎への残虐な原爆投下、条約を破ってのソ連の参戦などと続き、万策尽きた政府はポツダム宣言を受諾して降伏します。20年9月2日のミズリー艦上での降伏文書調印を経て、日本は連合軍の占領下に入りました。占領行政の方式は連合軍最高司令官が、日本政府の上に位置する間接統治方式です。占領後直ちに幾つもの総司令部の指令が日本政府に出されます。
占領政策の基本は、まず日本の非軍事化であり、これに関するものが先行しています。教育関係ではすでに10月22日に総司令部は教育制度に関する指令で、軍事教育、超国家的イデオロギーに関する教育の禁止を指示しています。
占領後早々に学校における武道教育が禁止された敗戦後の学校教育の改革は文部省としても検討していました。軍関係の学校の廃止や、一般校における教練など軍事に繋がる教育の中止は当然と受け取られますが、柔道、剣道など武道教育については体育の中で衣替えして継続する考えでした。しかしこの方針は、武道、特に剣道が上記の禁止指令の対象に該当するとする見解を持つ総司令部側の了承は得られず、文部省は折衝を行ったと伝えられますが、占領軍指令の実行という圧力に抗しえず、同年11月6日に「終戦に伴う体錬科教授要目の取り扱い」に関する文部次官通牒を出します。「武道の授業を中止すること、また正課外においても、校友会の武道に関する部班などを編成せざること」との剣道界にとって最も厳しい内容です。占領開始直後のこの時期に武道教育までが、軍事教育と同格のものとして目を付けられ、指令に明記することなく禁止させられたことは、問答無用の占領行政の中でも無法なものであったことは間違いありません。しかし戦いを交えた占領軍の体験から、この措置には日本人の精神を支える武道の存在が、占領統治の中の脅威として写っており、何をおいてもこれを除こうとした姿勢が窺えます。
敗戦の結果とられたこの措置は、これまでの剣道史上恐らく最大の受難であったことは間違いなく、長年日本文化として育った剣道に加えられた占領軍の苛酷な弾圧の第一歩でした。
この前後の経過は「全剣連三十年史」に記されていますが、修正を要する点も見られるので、次号でこれを敷衍して述べます。