青壮剣士が覇を争い、見応えあった全日本剣道選手権大会
恒例の11月3日の文化の日に、全国から集った64剣士による戦いは、期待に違わず新鋭と実績のあるベテランが入り交じっての熱戦がつぎつぎと展開されました。その中で大方の見所は、過去2回の連続優勝を飾っている宮崎正裕選手の戦い振りであり、さらに前人未到の3連覇を目指す宮崎選手を、誰かが阻むのではないかという点だったと思います。
出場選手の平均年齢は30.4才で、多数を占める30才代のベテランに、20才代の新鋭勢力が挑む試合がつぎつぎと展開されました。その間実績ある選手が多くの新鋭を退けて勝ち残りましたが、ベスト8に3人の若手が食い込んでいるのは、今後に期待を持たせるものです。
その中で宮崎正裕選手は期待に背かぬ試合振りで、食い下がる若手を堅実な試合で、例年より時間をかけましたが、危なげなく退け決勝戦に進みました。
一方の側は、予想どおり栄花直輝選手が進出、見る者も息を抜けない13分の緊迫したせめぎ合いの末、栄花選手の小手で勝負がきまりましたが、満場の観客に手に汗を握らせた好試合でした。両選手の健闘には改めて敬意を表するに吝かでありません。
この大会実業団から出た立花選手が三位に入り、また入賞を争い優秀選手賞を授与された教員の木原選手の若手の2人の活躍は光りましたが、さらに警察官では入賞の原田選手、優秀選手の佐藤博光選手などいずれも20代半ばの若手四、五段の選手の活躍に、今後の剣道界への明るい期待を持つことができた大会でもありました。しかしここで大会に纏わるつぎの歴史を思い出さずにいられません。
選手権大会から五段以下を締め出した時期があったこと
今から16年前の昭和59年3月の全剣連会議は、この秋の第32回選手権大会から、「選手の出場資格は六段以上とする」という驚くべき決定をしました。戦後剣道復活にあたり、戦前からの専門家、非専門家などの区分を廃して「選手の資格は年齢、段位など一切の制限を設けず、各剣連での予選を経て選手を出す」として30年続けられ、「内容も充実し、一般大衆の理解と支持を得てきた」(全剣連三十年史)方式を覆し、試合内容の低下を防ぐという名分で大会の基本的性格にかかわる変更を加えました。
この結果、今回の大会でいえば、半数の32人を占めた、四、五段の選手を出さない大会になったわけです。さらに時間節約と、試合の積極性を増すためと言うことで、判定を持ち込むことも同時に決められました。しかもそれらの決定が大した論議もなくまかり通ったのですから、率直に言わせて貰うならば、長期的視点も欠如した短絡的思考での決定と非難されて然るべき変更でした。
この方法で行われた大会は、1、2年は試合内容が良くなったとの当事者の自賛がありました。しかしすぐ選手の判定対策が出来たり、判定基準に対する疑問も起こってきましたし、選手権大会は開かれたものであるべきという一般の認識との食い違いも顕在化しました。このための改定は私が取り組むことになったのですが、一足飛びには行かず、平成7年の第43回大会になって、現在の方式に落ち着いたわけです。
その間の改善の歩みはつぎのとおりです。4年後の昭和63年の大会で、試合場に使っていた老朽化した特設舞台を廃止、武道館の床で試合をするように改めました。これは2試合場の使用と、時間節約に繋がります。翌年から選手定数を現在の64名にし、シードと不戦勝を無くしました。さらに翌年の平成2年大会から五段までの出場を認め、また2試合場を使っての運営を始めました。そして時間制約を緩和しつつ判定の適用を狭め、平成4年の大会から判定試合を追放、必ず有効打突で勝負をつけることにしました。そして平成7年の第43回大会に至って、選手の段位制限を撤廃して現在の形にすることができました。
他の改善も行いつつ進めたこともありますが、この間11年を要したことは、何とも気の長い話でした。こうしてやっと本来の望ましい形に立ち直らせてから、6回の大会実績を重ねました。漸く剣道の健全化に貢献できる大会を取り戻し得たの感を持っています。是正のために担当として終始苦心された故小沼宏至常任理事の気配りと努力が、今更のように思い出されます。
全剣連が事業の柱として重視している、審判技術の極意を、最も注目されるこの大会の審判で示して貰うため、審判員の人選に注意を払うとともに、適正な審判を行うよう努力をお願いしました。幸いこの大会を通じて示された審判はほとんど完璧といえる程度のもので、選手権大会にふさわしいものだったと感じました。特に有効打突の基準が安定していて、見るものも安心して居られたと思います。ご努力を多とするものです。
各地持ち回りで開くことが慣例になっている全日本居合道大会は、35回を迎え、全国から居合道愛好の高段者500人が集まり、大分市の県立総合体育館で開催されました。この大会五、六、七段の各県1人づつの代表によるトーナメントが行われ、それぞれ優勝者を決めます。そしてこの試合における個人成績を各県別に集計して、総合優勝を決める方法を取っています。各試合での3人の審判の判定、つまり旗の数も集計されます。
試合の結果は、六、七段を制した大分県が初めて優勝、地元の面目を保ちました。大会を目指しての猛練習が実を結んだことでしょう。勝ち点で二位、三位が同点、先に述べた旗数の差で、神奈川県が二位、福岡県が三位になりました。各県代表の中には、女性剣士も5名あり、それぞれ健闘でした。敢闘賞も設けてはと提案しております。
さてこの大会、最後を飾る個人演武には、高段者300名が参加、お祭りの要素も加味した大会を締めくくりました。
全剣連は10月23日に、選考委員会を開催、剣道功労賞3人、剣道有功賞57名の授賞を内定、11月2日の理事会に図って決定、例年とおり11月3日付けで贈呈することになりました。授賞者への功労賞贈呈式を11月13日、九段会館で実施しました。3人の方を簡単にご紹介します。
富岡 巌さんは鹿児島市において事業を営まれる傍ら、居合道の修業、指導に当たられ、居合道界の長老として全国的に活動してこられました。村岡 裕さんは高校、大学における剣道の指導、普及活動のほか、定時制・通信制剣道大会の育成にも当たられました。ワーナー・ゴードンさんは、隻脚の米人剣士、戦前から剣道を修められましたが、日本復帰前の沖縄の琉球民生府局長として、地元の剣道の普及に当たられたほか、全国の剣道の奨励に大きな影響を与えた方です。3人の方にはお元気で、贈呈式に出て戴きました。
剣道有功賞は、それぞれの剣連、団体を通じて贈呈されます。受賞された皆さんの今後のご健勝を念じます。
11月2日の、理事会、評議員会で、来年度の大会、講習会、審査会などの行事日程案につき審議、例年とおり内定しました。この案の策定までに執行部として検討した事項では、講習会の充実を図るため、東西で別々に行っていた、中堅剣士剣道講習会を一本化し、全国の剣士を集めて奈良市中央体育館において開催すること、剣道中央講習会は東西で行うが、原則として同一の講師によるとしました。
称号審査では、本年実施を見送った、春の錬士・教士審査のうち、錬士審査は5月に行う予定です。
大会、審査会における身体障害者の扱いについては、これまでそれぞれの実施場所において、適宜便宜を与えるなどの対応をしてきましたが、全剣連として一元的に対応を検討すべきとの考えに基づき、それぞれの専門委員会に対応の基準を検討して貰うことになりました。
春の実施を見送った錬士・教士の審査が進行し、錬士は書く剣連からの推薦書類が集まり、全剣連は小論文審査にかかります。教士については、剣道16名、居合道1名の各剣連からの推薦者に対しての筆記試験を東京、神戸、福岡に置いて実施、いずれも採点を行って、月末の審査会においてはじめての合格者を決定します。
剣道人バッジのお勧め
先月から新装提供をはじめた、歴史の古い三色バッジ、さらに同じマークを使ったカフス、ネクタイピンなども用意しましたが、全剣連徽章など、固い名前を使いましたが、関係者などに限定する者ではありません。智・仁・勇の徳を占めしたもので、剣道愛好者の誇りを表すものとして広く愛用をお勧めし、活用をお願いします。名前も多少柔らかくして。剣道人バッジとしました。