ゴールデンウィークを中心として全国の剣道人が集う、一連の行事は、参加者のお祭りであり、挑戦の機会でもあります。戦後始められた全国都道府県対抗剣道優勝大会は第51回を数え、武徳殿と共に歩んできた全日本剣道演武大会は、中断期を乗り越えて99回、白寿の歴史を刻みました。今回も地元剣連の関係者をはじめ多くの方の援助、尽力を戴いて無事行事を終え、総体としてまずまずの出来栄えと、参加者、受審者にも評価して戴けたものと、主催者として感じています。
京都と名古屋で行われる5月の審査会は、改定された規則によるはじめてのもので、審査結果に変化がおこることを気に掛けていました。しかし厳選された審査員により、良い方向に前進できました。特にゴールデンウィーク後の週末に行われた名古屋の審査会の六段審査には、予想以上の1,000人を越す受審者が殺到、平日の京都での審査会と逆転しました。休日明けの週日に勤めを休むことが難しい昨今の社会事情を反映したものであり春秋の名古屋での審査会の意義は大きくなっています。
そして名古屋と京都での六、七段審査がほぼ同じ質の審査として、順調に終了したこと、また運用面で受審者の拘束時間も短くなっていることも評価できることと思います。
さてこの行事の期間、全剣連の仕事に私なりに没頭したのですが、行動日記の形で報告に代えます。
5月1日(木)
夜の出発を控え、懸案だった大島 功元会長の墓参を志す。車で自宅を出て府中街道を北上。準休日のはずが道路工事もあり久米川付近で大渋滞。やっと所沢聖地霊園に着く。大道坦々と刻まれた大島さんの墓碑に詣り、全剣連設立50周年を報告。これで石田和外二代目会長(鎌倉・瑞泉寺),木村篤太郎初代会長(多摩霊園)の3人の方への報告を終える。午後全剣連に行き、用務を済ませて帰宅。夜10時すぎ改めて出発、京王八王子駅のバスターミナルで、京都駅行き深夜バスに乗り込む。例年のコースであるが、今年は剣道具を携えたお仲間は見掛けない。11時すぎ発車。椅子を倒して睡眠。
5月2日(金)
目を覚ますとバスは琵琶湖近くを快走中、5時半すぎに三条京阪で下車、丸太町川沿いの定宿「京都ソサエティ」に着く。身ごしらえなど少憩の後、西京極の剣道八段審査会場に赴く。新設の審査委員長には森島副会長を煩わしている。42人の審査員に、規則改定後のはじめての審査会の意義を含めて挨拶。審査は9時50分に始まる。立上がりは審査員も慎重になりすぎるのか、若手46才が揃う第一会場の第一組、判定が厳しいので心配。しかしその後順調に進行。夕刻5時過ぎまでかかって1,100人の第一次審査を終える。一次合格者は96名、まずまずではあるが知名な剣士の名が見えないのは寂しい。この間八段審査では滅多にない、2人のアキレス腱負傷者が出る。救急車で病院に送られる。お気の毒であるが回復と再起を祈り激励。見舞いなどの措置を指示。昔なら名誉の負傷で済むが、すでに着手している医・科学委員会での取り組みに期待。5時半、三組、9人づつの審査員による第二次審査が始まる。さすがにレベルの高い真剣な演武が続く。17人の合格者。厳しい結果であるが人数ではまずまずのか。九州、東北より北の合格者ゼロ、60才以上の合格者がないことも目立つが偶然であろう。終了した7時には屋外は暗い。武道センターから会場を移してよかったと改めて感じる。審査員、係員の長時間の労働に感謝。合格できなかった大部分の方の再挑戦への努力を期待。審査会終了後約束していた、京都駅そばリーガロイヤルホテルでの居合道前夜祭と言える集会に顔を出し挨拶。規則改定の趣旨、審査における倫理条項に触れる。退出して宿に帰り軽食、すぐ部屋で横になる。長い一日であった。
5月3日(土)
いくつもの行事が重なる日。京都での演武大会と形・学科の八段審査は森島副会長に受け持って戴き、朝7時前に宿を出て加茂川の橋を渡り、京阪丸太町より大阪に向かう。終点淀屋橋から地下鉄で朝潮橋に出て、会場の大阪市体育館へ。第51回全日本都道府県対抗剣道優勝大会の開会式で挨拶。都道府県剣連の各層の剣士による対抗試合の成功を期待。6会場の試合の2試合目まで観戦して中座、梅田に出て阪急で西京極へ。
昨日に続く剣道七段審査会の進行状況を見る。順調な進展を確認して出て、逆方向で梅田経由、大阪市体育館に戻り、準々決勝戦から観戦。熱戦の末、準決勝戦第1試合は前年優勝の東京都と、復活に意気盛んな大阪府の対戦となる。厳しい勝負が続いたが、女子選手権者2人を揃えた大阪府が優位に立ち大将戦も制して振り切る。この試合が事実上の優勝戦となり、一方のブロックを勝ち抜いたダークホースの宮城県を決勝戦で一方的に下し、1年置いて大阪府は王座に帰り咲く。全般を通じ見応えある対戦が目立つたのは何より。この大会は剣連の総力戦としての意義が大きいが、3年目になった敢闘選手の表彰も選手の励みになると思う。
終わって京都に戻り、ニュー京都ホテルでの警察関係者の集まりの剣桜会に顔を出し懇談。
5月4日(日)
剣道演武の初日、平安神宮での武徳祭で始まる。朝8時に本殿に参上、多くの長老とともに、剣道界の安泰と発展、演武大会の無事を祈願する。退出してこの時だけ開けて貰える武徳殿南門をくぐって正面より入る。このいきさつは、「剣窓スペシヤル」に再録された随筆「開け胡麻」に譲る。9時よりの剣道開始式で挨拶。例年とおり京都府知事、京都市長の祝辞を頂戴。地元剣連を代表して、今年は野中廣務会長が出席され、歓迎の辞を述べて戴いた。席が暖まる暇無く杖道八段審査が始まるので、武道センター、サブ道場で審査員に挨拶、要望を述べる。続いて居合道八段審査員に挨拶。審査の結果は杖道の合格者は1名、居合道は一次合格30名だが二次合格が9名も出る。剣道に比較して水準が低いのでは無いかとの印象が残る。続いて両道の称号審査がある。合格者は杖道なし、居合道1名という結果で濫発は避けられた。武徳殿での剣道演武はほとんど拝見できなかったが、今年は教士七段の部で、4日に演武を希望する者の希望に応えたため、この日の演武者が膨れ上がり、大会が6時過ぎまでかかる。終了後、超長老のお招きを受けて、三条京阪そばの古い鳥料理店に参上懇談、古都の雰囲気を満喫し英気を養い帰る。
5月5日(月)
演武開始は8時。その前の朝稽古も盛況。坦々と演武が進行。今年は武道具製作実演に代えて記念事業で作成したビデオを、南側の黒いテントで映写し関心を呼んだ。全剣連受付のテントでの、出揃った刊行物販売も盛況。昼の弁当は辞退して、都剣連事務局の巣のそばやに行き、野菜などの補給も行う。演武終了後、西側の記念碑まえで行われる京都府剣連の主催の、内藤高治範士の追悼祭に出席。続いて恒例の相談役との懇談会を「六盛」で開催。現況説明や記念行事の報告などを行う。珍しくお褒めを戴く。
5月6日(火)
演武大会最終日、途中から剣道八段の対戦となり場内の空気も高揚。今回は6組の年代別特選試合を選んで、最後を盛り上げることにした。それぞれ持ち味を生かし、内容ある試合を展開し、来年の第100回大会の企画につながる実績を示されたことに感謝。大会終了後八段研修同期会にいくつか顔を出した後、聖護院荘での事務局の打ち上げ慰労会に出席。
5月7日(水)
武道センターで剣道六段審査。週末の名古屋での参加が多くコンパクトな審査会。10時から剣道称号審査会。10人の審査員に各剣連から推薦の候補者29名に対する予備評価の結果を集約披露、これらを参考にして最終判定を行って貰う。4人の合格という厳しい結果になる。あと何人か欲しかった感もあるが、新制度における範士としての厳選になった。剣道教士は筆記試験の結果も斟酌し、35人が不合格、168人が合格。
主な行事も終ったので、丁丁三条河原町に行き、見逃していた映画「戦場のピアニスト」を観る。第二次大戦下のポーランド・ワルシャワでユダヤ人迫害の中、奇跡的に生き長らえたピアニストの実話を描いた名画。かつて剣道使節団で訪れたこの地を思い出す。このあと6時から京都駅前タワーホテルでの京都府剣連主催、全剣連協賛の関係者への慰労会に顔を出し、挨拶ののち新幹線で帰京した。
元審議員、剣道功労者、剣道範士、佐藤清英さんが亡くなられました。戦前の東京高師ご出身。千葉県剣連会長も勤められ物静かながら骨のある剣道人として、長年剣道発展のため貢献されました。ご冥福を祈り上げます。