この講習会は全剣連講習事業の柱として、各剣連の幹部の参集を求めて行われてきました。内容・役割の変遷をここで振り返って見ます。
全剣連が昭和27年に発足し、剣道の戦後の復興に立ち上がった当時は、全体のシステムを作る仕事に追われていました。各種大会を立ち上げる、学校教育の場に復活させる、称号・段位制度を立ち上げ、運用して、収入を上げ財政基盤を強化する。ちょっと取り上げただけのこれらの仕事を、弱体であった事務機能で処理して行く当時の状況の厳しさは想像に余りあります。
審判技術の伝達講習で始められた
全剣連発足後10年余りを経た昭和40年前後になって、ようやく講習事業に手をつけられる時代となりました。当時最も必要度が高かったのは審判講習でした。それは指導の中心であった戦前育ちの剣道指導層にとって、打突部位こそ昔と変っていませんが、試合への時間制の導入、場外を始めとした反則制度、そしてこれが一本に換算され勝負に結び付くシステムを織り込んだ試合・審判規則の運用、解釈については多くの戸惑いと疑問が提示されたのは無理からぬことでした。当時の剣道界として、全国規模での試合が急速に広く行われるようになっていた状況の下、現在要請されている試合の内容向上のための審判技術以前に、その教育が焦眉の急でした。
全国都道府県から幹部クラスの人々を集めて行われた審判講習会が、昭和41年9月に3日間にわたり日本武道館で行われました。これが現在の中央講習会の始まりになります。その後講習科目に日本剣道形が加えられ、昭和44年には受講者の便を考慮して東西に分けて実施され、毎年の重要行事として続けられました。
この講習会の特長は、中央で定めた規則改定やその運営事項、解釈などの事項の「伝達講習会」であり、この内容を地方の剣連でさらに下部に伝達され、全般の普及に役立たせるという体制でした。日本剣道形についても同様でした。
その後船舶振興会の補助が得られるようになり、全国各ブロック持ち回りの講習会が行われました。
こういった状況で講習の体制、地方への普及の方法が定着して何年かが過ぎました。このことは全剣連設立の当初は役割を果たしましたが、その内容的に進歩が乏しく、指導法などの科目は重点とされないまま、停滞の時代が続いたと見ます。
指導法を重視した講習会へと内容が進展する
昭和の末になると、試合・審判における規則の改正・解釈の変更も一段落して、成熟の時期に入っていました。剣道人口も増え地方での剣道人材も育ち、講習の変革への素地が高まって来ました。
平成に入って講習を取り巻く状況が大きく動き出しました。講習の主題であった試合・審判規則の大改正が行われ、それまでの問題点を整理し、形式的にも近代化した規則が平成7年にできました。また続いて「手引き」が作成され、さらに基幹となる審判法の講師要員の養成が始まり、認定を行って、各地の講習の内容改善に大きな役割を果たすようになりました。
日本剣道形については、解説書の見直しを進め、ビデオが作成されるなど、資料の充実も進められました。
普及活動の中心というべき指導法についての講習の教程の整備が進められ、新しい講習会資料が平成15年に完成するなど、講習参加者の事前の勉強になる教材などの資料が平成10年代に入ってつぎつぎと整備されて行きました。
これらの成果に基づき、全剣連は講習の重点を、本来目指すべき剣道人口の底辺から充実させる、指導法に置くよう変換することができました。
全国の指導力強化の役割を担う中央講習会
本年度の事業計画に見られるように、全剣連は事業の重点に指導力の強化を掲げており、昨年の役員改選の際、「指導委員会」また普及委員会の中に「学校教育部会」を新設、その面の研究・業務の充実を進めています。
ご承知のように5年前から、全剣連は普及、指導の重心を地方に移しております。各剣連が普及の中心となって活動することを要請し、全剣連はその活動を基本事項の策定、講習会への講師派遣などで助成する方向に切り替えています。この意味で中央講習会の役割も、かつての伝達でなく、各剣連の指導力増強を助ける養成へと大きく変って行きます。これに対応して、全剣連ももっと研究を進め、実力を高めていくことが必要になります。
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