前号に続いて日本剣道形を取り上げます。
明治を迎え日本のあらゆる分野での新体制に移行の流れの中、日清戦争での勝利がキッカケとなって、衰退した武道を興そうという動きが高まり、大日本武徳会が明治28(1895)年設立されました。そして武道の振興を図るため、現在岡崎に偉容を誇る武徳殿の建設、毎年の演武大会の開催、また教育機関としての武術専門学校の開校など、多くの事業を展開しました。
その後、国民への武道の普及を図るため学校教育に正課として取り入れるべきとの運動が行われ、難航はしましたが、武徳会発足して10年後の日露戦争の勝利などで、武道振興への国民の意欲向上などを背景にして機運が盛り上がり、実現への期待が高まりました。
しかし当時の剣術は、江戸幕府時代に多くの流派が乱立した状態が引き継がれた有様でした。それぞれの流派が形による異なった剣技の体系を持っており、当然の事ながら門外不出で、一門の中でもこれに近い状態でした。当時の流派は100を越えた数と見られています。(高野佐三郎―『劍道』による)
学校教育で剣道を指導していくためには、基本となる形を統一したものとしてまとめることが必要とされます。武徳会ではその必要に応えるため、形制定のための委員会を明治39(1906)年7月に設け、武徳会剣道形につき答申を求めたのであります。
委嘱に基づき範士、子爵渡辺昇を首席とする委員会で三本の形による案をまとめ、会長に答申し、これが同年12月、大日本武徳会剣道形として決定されました。そしてその普及を図ったのですが、全国に各流派が存在している中、この案は評判が悪く、剣道界から受け入れられず、出直しのやむなきに至りました。
一方、明治44(1911)年7月の改正中学校令施行規則において、正課として剣柔二道を加える事になりました。この情勢に対応して、武徳会は基本となるべき形として、各流派を超越して、新たに一般的共通のものを制定する必要に迫られました。そこで武徳会としては、今回は慎重に剣道各界の意見も徴し、これまでの武徳会剣術形を超え、国内全般で行われるものとしてまとめる方針を固めました。
そして同年12月20日武徳会は剣道形調査委員会を設けることを決定しました。委員長には大浦兼武武徳会会長が当たり、副委員長には嘉納治五郎東京高師学校長、委員は25名でうち5名が主査とされました。主査は根岸信五郎(東京)、辻 真平(佐賀)、内藤高治(武徳会本部)、門奈 正(武徳会本部)、高野佐三郎(東京高師)の5名、根岸・辻を除く3名は教士であり、年功にとらわれず、実力者を起用したことが見られます。
その他の委員は各地区代表を網羅した剣道家で、台湾代表の名も見え、中山博道氏も東京代表で名を連ねています。幹事としては、武徳会事務理事の市川阿蘇次郎氏が当たっています。
要は前回の剣道形は、武徳会が独走ぎみにまとめ、各地区の意見が反映されなかったことが不成功の原因と見られ、顔ぶれではその是正に配慮しているほか、学校教育の一方の旗頭である東京高師の協力を得るための配慮が見えます。
さてこの様な形で委員会がスタートし、主査が作業して原案を作り、大正元(1912)年10月16日に、主査がまとめた草案を審議して、現行の剣道形と同様の、大日本帝国剣道形が決まることになります。審議内容などについて、次号に続きます。
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