これまで述べましたように、武徳会は中学校の正課に剣道が取り入れられることが決まり、統一された形をまとめる必要に迫られ、明治44年12月に剣道形調査会を発足させました。そして翌年に入り5名の主査グループによる立案作業が進められ、明治45年6月26日に主査会を開催し、最終決定となった太刀七本、小太刀三本の草案を決定し、7月10日付を以て形草案報告書を調査会に提出しました。
これが調査会に諮られ決定に至りますが、この間主査グループにおいて打ち合わせ骨格が決められ草案をまとめるにあたっては、相当な論議があり、苦労があったはずですが、これについての資料は残されていません。作業に主査として参加した高野佐三郎は、著書の中で次のように述べていますので、推察の材料になりましょう。現代文に改めて引用します。
「これまで各流各学校等で選定した形はその数、数百に上り、往々にして形としての意義を没却するだけでなく、剣道教授の上で不便が少なくなかった。この大日本帝国剣道形は武徳会から命ぜられた主査5人が、全国各大家に諮って選定したもので、従来の武徳会剣道形、文部省選定剣道形は廃止し、この剣道形を以てすることになった。これまでの形は形としてのみ用いられ、仕合に応用できないものが多かった。この新しい形は、十本に過ぎないがこれを活用すれば何本にも応用することができよう。実際の仕合に応用し得ることを主眼にしてこれを制定したのである」
この案に基づいて委員会を7月29日に開催する予定でしたが、折悪しく明治天皇のご不例があり延期されました。(30日に崩御され、大正天皇が即位)
改めて大正元年10月16日委員会を京都帝大学生集会所で開催、主査の策定した案を審議しました。この際大浦兼武委員長は「この委員会は今後の剣道の教育を進めるための統一された形を制定しょうとするものである。形は人の工夫により策定するものであるから、万人に異論のない完全なものを作るのは不可能であり、多数の専門家が認めるものを以て是認するほか無い。腹蔵無く意見を交換したのち一致しないものは、多数決により委員会の意見とせざるを得ない。諸君は合議体の意思となったことについてはこれを尊重する義務がある」と再び統一された形を作る意志を強調しています。
主査委員の実演・説明・質疑があり、草案の大体の可否について、委員長が諮った所、満場異義なく承認されました。
こうして逐条審議に移りました。細かい表現についての意見交換が行われましたが、全般にかかわる2.3点を掲げます。
原案で折敷とあるのを、蹲踞と改められました。懸声について、ヤー、エー、トーの三声を使うことにしたいという意見がありましたが、採決されヤー、トーの二声に決まっています。また形を行うにあたり。正式には白刃を用い、練習には木刀を用いることを明記しました。その後一本ごとの審議が行われ、実質的に大日本帝国剣道形が固まり、教育の場に普及が進められました。
その後、大正6年9月(1917年)に加註、さらに昭和8年5月(1933年)に加註増補が行われ、戦後は昭和56年12月に解説書を作成して普及・教育を進めているのはご承知の通りです。
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